西きょうじ「そもそも」
2017/06/02

第十七回 歌え、踊れ、新たな自分を解き放つために

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 先日、ソプラノ歌手鈴木玲奈さんのリサイタルに行ってきた。その日はピアノ一台とソプラノ一人という構成だった。一〇〇席ほどの小さな会場で、舞台もなく、私は彼女から三メートルくらいの位置で観ることができた。素晴らしい歌声に気持ちのいい時間が過ぎていった。人間の声は、最強の楽器だと言えるのだろうと、実感しながら聴いていたのだが、ラストにオペラ「ランメルモールのルチア」の「狂乱の場」を歌い演じるのを目の当たりにして、息が詰まった。この場面は、恋人がいるのに、無理やり結婚させられることになったルチアが、結婚式の祝宴の当日に、相手を刺し殺してしまい、祝宴の場に現れるところから始まる。血まみれになり、正気を失ったルチアが、恋人との結婚の幻想を延々と歌い上げ、天国での恋人との再会を夢見て倒れるという場面だ。間近に見る玲奈さんの表情は、魔に取り憑かれたようで視線は虚空をさまよっていた。絶望から、狂気へ、そして錯乱状態で幸せな夢想を、高音のみならず中低音まで力強く歌い上げていた。狂気の笑顔とその歌声に、観ている私にも狂気が伝染しそうでゾッとした。
 その週の日曜日には、ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団の「カーネーション―NELKEN」を観た。この舞台については、観ていない人にどう説明すれば伝わるのかわからないが、可能な範囲で書いてみようと思う。基本的には、ピナの演目は、ピナの「愛について何か話して」などという質問に対して、ダンサーが出した身体表現による解答をピナが拾い上げる、ということから一つの場面ができる。そうしてできた一見無関係な場面をコラージュしていくことによって全体が構成されていく。そういうわけで、ストーリーを語ることはできない。断片的にシーンを語ることにしよう。
 劇場に入ると舞台一面にカーネーション(造花だが)が敷き詰められている。そこに現われるダンサーがガーシュインの「私の愛する人」を手話で演じる。これは「愛とは」に対する一つの解答である。心臓にマイクをあてると、心臓の鼓動音が劇場に響く。「生きている」音だ。次々と、急激にシーンは変わり続けていく。自虐的に土を頭の上からかけ泣きわめきはじめるダンサー。異国からやってきてパスポートを提示すると、「まともな服を着なさい」と命じられ、服を着替えると今度は犬になることを命じられる。命令されるままに、犬の鳴き声を出しながら踊り続けることを強要されるダンサー。表現の強要。犬になり吠え続けるダンサーのコミカルな演技を笑う観客も、人種差別を行う共犯者となる。観客に傍観者としての安全地帯は許されていない。向かいあうダンサーが互いの頬を叩いてその頬にキスをする、それを、延々と繰り返す。打たれた頬は真っ赤になっていく。屈折した愛情と暴力と許し、そしてまた暴力……の反復。女性を見つめながら三人の男性のダンサーが順にテーブルの上から転げ落ちる、それを見た女性は悲鳴を上げてやめてくれと頼むが、さらにテーブルを女性に近づけて三人は自殺的にテーブルから床にダイブする、女性は何とか見ないですむように、その行為をやめさせようとするが、さらに女性の間近までテーブルを近づけて三人は順にテーブルから床にダイブする。見ることの強要、共犯関係の強要。その場にいる観客も見ることを強要されるが逃れようもない。過剰なほど反復的に繰り返される自殺のような落下を目撃し続けると胸が苦しくなってくる。シューベルト「死と乙女」第二楽章が流れる場面では、ダンサーたちが椅子を抱えて走り回る。強烈な切迫感とエネルギー。何を演じているのかは分からないが、息が詰まる場面だ。進行とともに、カーネーションはどんどん踏み倒されていく。
 こうして、暴力、虐待、卑屈、権力、差別、反乱、戸惑い、無関心、絶望、残酷な愛の形が、次々容赦なく襲い掛かってきて、その際限なき反復が観客の感情をかく乱する。(もちろん時々安心させてくれる場面も、はさまれてはいるが……)しかし、最後に、再び愛と生命の福音が舞台に戻ってくる。観客に抱擁のダンスを促すのだ。観客を立ち上がらせて、右腕を外に、次に左腕を外に開かせ、右腕、左腕と閉じさせることによって、四カウントで抱擁の形をつくらせる。ダンサーが客席に降りてきて、四カウントで客と抱擁する。こわばっていた観客の身体はほぐれ、緊張した感情は和らいでいく。そのあとで、ネルケンラインが始まる。春・夏・秋・冬を表す動きと共に、笑顔でダンサーが列になって歩き続けるラインダンスだ。春は大地からの芽生え、夏は高く伸びる草と高所で光る太陽、秋は落ちる葉、冬は寒さをあらわす動きであり、これはネイティヴ・アメリカンの身振り言語から来たものだ。ここには、生への柔らかな解放がある。ラストにはダンサーたちがなぜダンサーになったかを一言ずつ語って終わる。勉強からの逃避やあこがれやいじめられた体験や自らのLGBTを語り、さらには「兵士になりたくなかったのでダンサーになった」などと言って舞台は終わる。なぜか、笑顔になれるエンディングだ。
 ここで、オペラとピナの舞踊の違いを考えてみる。
 オペラの場合、観客は自分が何を観ているのか、またそこで何を観たいのかが認識できている。歌手に感情移入しやすい環境が既に出来上がった状態で舞台を見るわけだ。(もちろん、前回のコラムに書いたように、「観る準備」ができているほうが、舞台から得られる感動は大きなものになる。オペラの場合、元となった作品、世界史などの知識も持っておきたい)さらに人間の声は誰にとっても共感しやすい楽器である。そもそも人間は人間の声を聴くようにできているからだ。自分自身も日常的に声を出しているからでもある。自分も声を出しているだけに、歌手の声が尋常ならざる音域、声量、音質だということも感知しやすい。歌手が演技力や歌唱力を高めるほどに、観客の感動は高まることになる。また、観客の側が、鑑賞力を身に付ければ、それだけ深く味わえるようになる。そして、鑑賞力を高める訓練をすることは可能である。
 ところが、ピナの舞台の場合、観客は自分が何を観ているのかまったくわからない、という事態が起こる。たとえば、「カーネーション」では、切り刻んだ玉ねぎに、男たちが順に顔を突っ込んで、玉ねぎまみれの顔のまま、まっすぐに立ってダンスするのだが、なぜそんなことをしているのか、など私にはまったくわからない。それを拭い去ってくれる女が現れて初めて、何かしらの感情は動くのだが、かといってそのダンスを理解できるわけではない。
 つまり、感情が刺激され、情動をかきたてられるのだが、それがどういう感情であるのか、なぜその情動が起きているのか、が自分でも理解できないのだ。しかし、たとえば、虐待を受けたことがある人であれば、虐待的なものを感じさせるダンスが反復される場面で、自分の中にあるもはや無意識化されていたトラウマが、舞台に過剰に描き出されているのを発見することになるだろう。それを直視させられるのは、非常につらい観劇体験かもしれない。また、身体というものは相手の身体にシンクロし無意識に相手の動きをまねるものだ。それが情動にも伝わることで共感が生まれるのだ。(単行本『そもそも』第二回「連れション」男と共感力)たとえば、痙攣的なダンスを観ているうちに、自分の身体にも痙攣を感じ始めるといったことが生じる。しかし、なぜ自分の体がそう反応しているのかは理解できない。しかし、身体の変化は感情の変化を生む。(感情から身体の動きへの影響だけでなく、身体の動きから感情への影響も大きい。たとえば、うれしくなくても、笑顔を作ってみると幸福を感じることになる、というようなことだ)すると、いわば感情が痙攣するような感じになる。その痙攣は遠い昔に人類が経験して、今や無意識化されてしまっている原初的なものかもしれない。そうした体験が、持続性を持たずに、断片的に起こり続ける。ジェットコースターに、目隠しをされて、永遠に乗り続けているような感じだ。だから、エンディングのネルケンダンスに出会って、身体が解放されるとともに、情動も一気に解放されるのだろう。理由のわからない涙が流れるほどに。しかし、感動した、といいながらも、自分が何を目撃し、何に感動したのか、わからない。様々な事件が同時に起こって、自分はそのすべての当事者であった、が、最後に大きな愛に包み込まれた、という感じだ。オペラのように、受け取る側がしっかりとしたフレームを想定し、準備することができる場合と違って、こうした事件のような舞台に対する鑑賞力を高めることはなかなか難しい。
 ちなみに、演じる側はこうコメントしている。ピナを観るのに重要なことは、「観る人が自分が何者なのか、何を感じているのか、どこから来たのか、自分にとって何が喜びで何が悲しみなのかをベースに、感じることだと思います」。また、このような舞台を演じること、同様に鑑賞することは、「人間の経験を深めること」だとも言っている。(ヴッパタール舞踊団員であるジュリー・アン・スタンザックの言葉)

 ここで話題を大きく変えることにする。日常的に私たちは身体によってコミュニケートしている。実際、日常のありふれた会話においては、メッセージの七パーセントが言語のみ、三八パーセントが声、五五パーセントが非言語的ボディランゲッジで伝達されているという報告もある。(⇒単行本第十四回)つまり、言語的な意味内容以上に、身体的にメッセージを伝達しているということになる。すると、声の出し方や、身体の動かし方を工夫すれば、伝達の強度を高められることになるだろう。あるいは、何かを伝えることで感動を生みたければ、(もちろん、伝えたいことを自覚するためには、自己について思考することが前提となり、身体の動きと思考内容は互いに影響を与えながら、変化し続けるというサイクルを描くことになるのだが……)自分の身体の動きから相手の身体に訴えかけることがキーポイントになるだろう。そのためには、まず、身体感覚的に自己と関わることが必要だ。声帯も身体であるから、まとめていえば、伝達能力を高めるには、自分の身体を意識し、意識的に動かせるように訓練することが有効だということになる。
 教育的に見ると、創作ダンス教育というのはこの要件を満たしている。二〇一六年の日本認知科学会で発表された〈創作に注目した「身体表現教育」の実践とその効果:ダンスを専門としない大学生を対象として〉という研究結果を簡単に紹介する。これはダンスを専門としない大学生対象に五日間のワークショップを行った成果を発表したものだ。ここでは、ダンスを、「身体を媒体として、ある時間と空間において、伝えたいことを表現する」ものと定義している。
 ワークショップは以下のように行われた。

一日目
 環境(モノ)と積極的にかかわることでダンスを創作する(例:サボテンと踊る)
二日目
 他者との関わりからダンスを創作する(例:他者のためのダンスを創作する)
三日目
 少人数に分かれて、グループごとにモノとも関わりながらダンスを創作する
四日目
 三日目までにやったことを組み合わせて一つの作品を構成する
五日目
 作品の発表

 結果の想定を要約すると以下のようだが、ほぼ予想通りの結果が得られたと、具体的に報告されている。
「例えば自分の思考や知覚したことを、それを身体で表現する際に、自分の思考や知覚に自覚的になる。すると、自分自身の身体的特性や、物のとらえ方の特性への気づきが生じる。またある環境の中で、他者に対して自分の身体表現を発信したり、他者からのフィードバックを得たりすることで、外的世界と意識的に関わることになる。すると、他者の身体や内面の特性へ、環境への気づきが生じる。それによって、自分と外的世界(他者や環境)との相互作用や関係性に対する気づきが生じる可能性がある。更に他者との積極的な関わり合いを円滑に行うことで、同時にコミュニケーションが促進されることにもつながるであろう」
 これは、現状をきちんと理解するだけでなく、他者と協働で現状から新しいアイデアや考えを自ら創出していくという、現代において求められている力の養成にもつながることになるだろう。
 とはいうものの、私たちの日常に目をやると、私自身やこのコラムの読者が創作ダンスを体験することはなかなかないだろう。では、どこから始めるか、というと、立ち方、座り方、歩き方、呼吸、声量や声の高さの調節からになる。日常的に自分がどのように立っているか、を自覚しようとしてみる。体の中心ライン、足への体重のかかり方などを少し変えてみると、自分の普段の立ち方が少し意識できるようになる。歩き方も同様だ。変に意識しすぎて歩き方が不自然になる、という段階を経るかもしれないが、歩き方の見本とすべき画像を探して、ひたすら模倣してみる。はじめは、体の細部まで一つずつの筋肉、空間的な位置関係を意識し、それから全体の流れまで繰り返し観察して、イメージトレーニングを行う。実は私自身、長らくこういうトレーニングから遠ざかっていたので、再開する必要を感じている。立ち方や座り方や歩き方は、顔の表情と同じくらい人の第一印象を決定づけるものなのだ。就職の面接がある人や、人前に立つことがある人は少しでもトレーニングしておくほうがいい。私は三〇年以上前に、「歩く」練習だけの合宿に行ったことがあるが、最終日に自分の身体の変化にとても驚いたのを覚えている。当然のことだが、身体の変化は内面にも影響する。
 声についても同様だ。ボイストレーニングによって発声を鍛える練習まではしなくていいが、声を変えることで相手への伝わり方が変わる、という実験はしてみてもよいだろう。第三舞台主宰の演出家鴻上尚史氏はこう言っている。
「声の例で説明しましょう。感情以外のどの要素を変えれば声が変わるのか、自分で考えて実践してみる。例えば「大きさ」です。よく飲み屋で声が大きくて周囲に嫌われているおじさんがいるでしょう。本人は大抵、自分の話の中身が嫌われる原因と思っているけれど、本当の原因は声の大きさだったりする。本人がそれに気づいて声の大きさを変えられれば、嫌われなくなるはずです。ほかにも「高さ」「速さ」「間」「音色(声色)」など、声で変えられるところはいくつもあります」
 つまり、声の出し方によって、他人との関係性に変化が生まれるということだ。もちろん伝達力は大きく変わってくるだろう。
 さらに鴻上氏は、読書などによって内面を豊かにする以外に、身体の動きの多様性を経験することによって、内面が豊かになるということも言っています。
「自分がしたことのない表情をしたり、出したことのない声を出せば、それに伴って、それまで未経験だった感情や感覚が内側からわいてくるんです。こういう経験の積み重ねで、人間はやはり〝豊か〟になるんじゃないでしょうか」

 このように考えてみると、自分の身体と向き合ったり、他人の身体の動きにシンクロしたりすることで、自分が深められていくのだと言えるだろう。オペラに出会ったり、未知のダンスに出会ったりするという体験、そして自分の身体を意識するというのは、芸術鑑賞という範囲にとどまることではないのだ。
 さあ、声を出して、歌って、踊ってみよう。新たな自分を解き放つために。

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