大地真央も演じた巨匠スタンダールの名作の主人公、恋に生きたその人生について、元タカラジェンヌが真剣に考えてみた
舞台はバルセロナへ
小説「パルムの僧院」は1947年にヨーロッパで映画化、1981年にはテレビドラマ化されている。そして宝塚歌劇団では、1982年に、この小説を原作としたミュージカル作品が大地真央さん主演で上演された。
柴田侑宏先生の脚本・演出、「情熱のバルセロナ」。初演は月組、2009年には雪組選抜メンバーによる全国ツアー公演で再演された。また、2014年には野口幸作先生の脚本・演出により「パルムの僧院―美しき愛の囚人―」が上演されたが、ここでは、「情熱のバルセロナ」について書いてみたい。
複雑な長編小説を約90分間のお芝居に作り替えた柴田先生の脚本は流石、物語の舞台はイタリアのパルムからスペインのバルセロナへ移された。主要な登場人物たちを絞って明確な人間関係を浮き上がらせたことも、功を奏した。交錯する恋に苦悩する人間ドラマは、観客の心を昂らせた。
人との関わり方や社会を知らず、自己満足に浸りがちなファブリスは、どうにも感情移入されにくい人物だ。そこで柴田先生が主人公として描いたのは、ファブリスに脚色を加えた宝塚ならではの主人公、純粋で若々しい自信に満ちた青年フランシスコだった。
特に忘れがたいのは、牢獄に囚われたフランシスコが、小鳥の世話をするロザリア(小説ではクレリア)を見て恋を募らせるシーン。二人の歌は、芳しい花が咲き乱れるような明るい音色で惹かれ合う思いを表している。鐘の音とカスタネットの響きが、あたかもバルセロナの街角に佇んでいるように感じさせる。
牢獄の外では、毒殺される可能性のあるフランシスコをなんとか助けようと、親しい人たちが手を尽くしている。そんな彼らの気も知らず、当のフランシスコは呑気にご機嫌だった。小説ではそんな彼に苛立ちを覚えてしまうのだが、恋の幸せに満ちた軽やかな音楽を聞いているとつい微笑んでしまう。
主人公フランシスコを演じたのは、当時の雪組トップスター・水夏希(みずなつき)さん、相手役であったトップ娘役・愛原実花(あいはらみか)さんがロザリアを演じた。二人とも膨大な量のお稽古を重ね、役の心情を緻密に考察し、的確な表現につなげる技術を徹底的に磨いていらした。
「新鮮さ」を演じるとは
宝塚の生徒は皆、お稽古熱心だ。反復練習をすると動作が心身に馴染んでいき、演技の技術や表現を深められる。一方で、お芝居に必要不可欠である「新鮮さ」を失うこともある。
このことをよく理解していた水さんは、「新鮮さ」を見せることをも研究していた。「フランシスコが初めて見聞きすること、感じること」を表現する。そのために顔の表情だけではなく、自然な身体の力み方、役の感情に伴う呼吸の仕方まで作り込んでいた。そんな水さんが演じるフランシスコの「新鮮さ」を肌で感じた、ある場面があった。
当時、私の役はフランシスコと戯れの恋をする踊り子、モニカだった。水さんと対峙するためには、練習を積むのは当たり前。その上で役を理解し、100%の集中力で挑まねば、お芝居を崩してしまう。それに、観客から見て美しいことも、絶対条件だった。
思い出すのも恥ずかしいが、お稽古の始め、私はフラメンコを踊るだけで精一杯だった。大人の色気を醸し出す男役である水さんと情熱的に踊るなんて、「逆立ちしてできるものなら逆立ちしたい」と思っていた。
「口に咥えた花を、フランシスコに渡す」という誘惑の仕草も、私の場合はただの振り付けの再現になってしまう。だが水さんは「踊り子から花を受け取る」という動作を、踊り子にじっと視線を合わせたまま、女性に触れるような柔らかさで花の香りを嗅いで表現したのだ。誘惑するのはモニカのはずが、フランシスコの色気にくらくらになってしまったのは言うまでもない。何度演じても、動作の繰り返しを超えた水さんの演技は毎回変化して、演じるたびに新たな気持ちを感じることができた。
今思えば未熟な私の演技だったが、お芝居を追究し続けた先にあるやりがいを教えてくださった水さんには、感謝してもしきれない思いだ。
愛原さんは、難役であるロザリアを、美化も背伸びもせず演じていた。たおやかな令嬢が恋を知り、強い意志を持つ女性へと成長していく。脱獄するフランシスコの無事を祈り、彼の姿をもう二度と見ないと誓うシーンでは、香り高い歌詞に深い思いを込めて歌った。
〈足元に滴る私の血潮で フランシスコといっぱいに書いて あなたへの愛の証〉
ラストシーン、フランシスコとロザリアは、困難な道を歩んでも愛を貫くと決意する。これこそ宝塚でしか観られない、そして水さんと愛原さんにしか演じられない、美の極まったシーンだと思う。
「僕らは不幸を分かち合うことで、互いの愛を確かめ合おう。どんなに離れていても、僕らはひとつだ」
身体の奥底から絞り出される言葉に、動きと感情が溶け合う流れが表されてた。
師ブラネスの思いは届くのか
小説「パルムの僧院」には、ファブリスの師である司祭、ブラネスが登場する。彼は決して、正しい道を説くわけではない。ラテン語よりも詳しいのは、占星術。ボール紙の望遠鏡を覗き込み毎晩夜空を見上げるが、鐘楼に籠るのは村人の盗みを防ぐためだった、と書き記されている風変わりな大司祭だ。
戦場から戻り、若い女優と刹那的な恋をして彼女の恋人に恨まれたりと、揉め事を起こし続けるファブリスは、ふと思い立ち少年時代から可愛がってくれたブラネスに会いに行く。彼は変わり者ではあったが、人間らしい生き方を教えてくれる人だった。ファブリスをあたたかく迎え入れたブラネスは、老いの影を背負い、別れを決意しているようだった。
〈お前が来てから五カ月半、または六カ月半たつと、私の生命はその幸福が完成され、油の切れた小さなランプのように消えるのだ。〉
ファブリスとの別れ際、ブラネスはこう言い残す。
〈自分を世の中に役だつ人間とする仕事をして、金を稼ぐがよい。〉
翻訳のややこしさで少々分かりづらいが、「誰かの光となる人間として生きろ」と諭す言葉だ。この忠告がファブリスの胸に生きていたならば、彼は長く満ち足りた人生を送ったかもしれない。ファブリスの生涯は、師が示した道より短く孤独であった。そうであってもクレリアと愛し合う生き方を、彼は望んだのだろう。
物語は、その最後で流れが変わる。31歳のファブリスは、クレリアも彼女との子供も亡くして人生に失望する。
〈ファブリスは自殺という手段に訴えるにはあまりにも愛し、あまりにも信心深かった。彼はあの世でクレリアに会いたいと思ったが、この世で償うべきことがたくさんあるのを感じないほどばかではなかった。〉
まるで一気に歳を重ねたように、ファブリスは現実に沈み込んでいる。それからの彼は地位を捨てて財産を人に分け与え、辿り着いた先こそがパルムの僧院だった。
そこでの日々のことは、ほとんど何も書かれていない。「油の切れた小さなランプのように」消えていく彼の生命の火、その最期はあまりにもたんたんと描写されている。
何事も詳細に記された小説なのに、その終わりの全てを見せてはくれない。
この小説のタイトルはなぜ、「パルムの僧院」なのか。長い物語の果てに、ファブリスが自分自身を見出した場所であったからだと、私には思える。ファブリスはおそらく初めて、自らと向き合う。それは、自分の中の神と対話することでもあったのかもしれない。
共感できない主人公だった。それでも、恋にひた走ったフランシスコを思い出すと、無鉄砲で明るいあの青年がなんだか懐かしくもあるのだ。
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