ザ・ブックレビュー 宝塚の本箱
2022/06/12

「父を殺し母を后に」 悲劇のフルコース『オイディプス王』に、元タカラジェンヌがささやかな希望を見い出してみた

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「オイディプス王」イラスト・はるな檸檬

雪組東京宝塚劇場公演千秋楽の本日、元宝塚雪組、早花まこさんによるブックレビューをお届けします。
今回取り上げるのはギリシャ悲劇の最高傑作ともいわれる『オイディプス王』。宝塚では2015年に専科公演として轟悠さん主演で上演され、轟さんの迫力ある演技が大きな話題を呼んだ。はるな檸檬さんによる轟さんと沙央くらまさんのイラストにもご注目ください!

 ***

「私の人生」が覆る時、どうするか

 家族が繰り返し語る、私が生まれた時の話。写真には、両親や親戚たちに囲まれた赤ちゃんが写っている。もしも、それらが全て真実ではなかったら。

「私の人生」が根底から覆されるような事実が突きつけられた時、私はどうするか。大切な思い出までが偽りに感じられる不安に耐えきれず、死を選ぼうとしてしまうかもしれない。

 だが、オイディプスは、死ななかった。惨めで悲しみに満ちた人生を受け入れ、自らを罰して生きることを選んだ。人には運命を変える力などない、しかし神をも凌駕するほどの生きる力がある。

「オイディプス王」が書かれたのは今から遥か2500年ほど前の、紀元前427年頃だ。ギリシャ三大悲劇詩人の一人であるソポクレスが書いたこの戯曲は、悲劇の最高傑作として後世に大きな影響を与えている。数々の舞台、映画、オペラの題材となり、宝塚歌劇でも、2015年に専科・轟悠(とどろきゆう)さん主演、小柳奈穂子先生の脚色・演出によって宝塚バウホール公演「オイディプス王」が上演された。

 物語の主人公は、コリントス王・ポリュボスの息子であり、テバイの王となったオイディプス。その昔、怪物スフィンクスが民へ仕掛けた、答えられなければ命を奪われるという問い。「足の数が4本、2本、3本と変化する生き物は何か」というこの有名な問いに、オイディプスは「人間」と答えて勝利した。テバイの民をスフィンクスの殺戮から救ったオイディプスだったが、その栄光から一転して闇をさすらう、人間の奥底をこれでもかと見せつけられる生涯が待ち受けていた。

 オイディプスは国中に広がった疫病の災厄からテバイを救おうと神託を求め、「かつて先王ライオスを殺した者を追放せよ」と告げられる。民たちのために殺害者を探るその過程で、彼は、知ってはならない自らの出自に辿り着いてしまう。

 その才智で道を切り開き、人々の尊敬を受けてきたオイディプスは、堂々とした自信と明るさを兼ね備えていた。

〈私の担っている苦しみは、私だけのものではない、この者たちすべてのものなのだ。〉

 疫病に苦しむテバイの民を救いたい一心で、オイディプスはこう語る。ここでいう彼にとっての苦しみとは、国民がみな一緒に耐え忍ぶ疫病という災難だ。だが皮肉なことに、このあとオイディプスが背負うのは彼自身が全く予期していなかった類の苦しみであり、誰も手を差し伸べることはできない。

 ライオスの殺害者を探し出すために呼び寄せられた盲目の預言者は、思いがけない言葉を口にする。他ならぬオイディプスを「殺害者」、「やがて運命によって破滅する」と告げるが、テバイの王オイディプスは少しも怯まなかった。

〈それで、もしこの国が救えるものなら、何でそれを恐れよう。〉

 強がりなどではなく、その言葉には真の王たる使命感と勇気が感じられる。そんな彼に、抗いようのない苦しみを容赦無く与えるとは、神といえどもいささか残酷すぎるのではないだろうか……。

紀元前の男を演じる

 神様に物申したくなるほどまっすぐな信念を持つオイディプスの威厳を、轟さんは少しの隙もなく醸し出していらした。宝塚で長年活躍され、貴公子から泥棒までありとあらゆる役柄を演じてきた轟さんが、いわゆる「宝塚らしい飾り気」を取り払って挑まれた舞台だった。知性と力を武器に王となり、民の信頼を得てきた男の、快活な表情に時折浮かぶ影がただならぬ生き様を物語っている。余計な装飾のない衣装と舞台メイクは、かつてスフィンクスを破った男の鋭く澄んだ眼光を際立たせていた。

 盲目の預言者から「あなたこそが追放されるべき者だ」と告げられたオイディプスは、「義理の弟クレオンが自分を追い落とそうと陰謀を企てた」と思い込んで憤る。仲の良いクレオンを処刑しようとするオイディプスだが、彼を思いとどまらせるため、テバイの民たちが歌いかける。この場面では、テバイの民衆を演じた下級生の皆さんが素晴らしい演技をされていた。民衆役に台詞や目立つ動きはないが、コーラスの一人一人がその人生の背景を感じさせる表情を見せ、オイディプスに語りかけていた。嘆願のコーラスには強い説得力が宿り、激昂していたオイディプスの心が静まる展開に感動を覚えた。

 舞台で役を演じるためには、例えば自分自身に置き換えてみたり、役の日常風景を想像して役を知ろうとしてみたりするなど、様々なやり方がある。それは、現代とあまりにかけ離れた世界である、古代の劇を演じる際にはやや大変だ。写真や映像といった資料が少ない分、その場所の景色や人をイメージする力がより必要になる。私自身は、「スサノオ」という公演で民の女を演じたことを思い出す。長い髪の毛を左右に分けて束ねる「みずら」に結い、近代の文明とは程遠い時代の民衆として演技をした。下級生だったこともあるが、近現代の作品との違いをあまり頭だけで考えようとせず、舞台の世界に没頭してしまえば苦労することもなかった。目の前で繰り広げられる神々の争いや奇跡に毎回心を奪われ、「古代日本の人々は、本当にこんな光景を見ていたのでは」と思ったことは忘れられない。「人間を演じる」と考えれば、古代劇の難しさは案外飛び越えられるのかもしれない。

 盲目の預言者の言葉に続き、オイディプスにさらに追い討ちをかけたのは、コリントスから来た使者だった。父親であるコリントス王ポリュボスと自分との間に血の繋がりはない――。思いがけない事実に動揺したまま、オイディプスは、自分の出生の秘密を知る老羊飼いを呼び寄せる。災いをもたらす子供として亡き者にされるはずだった、オイディプスの命を救った人物だ。

 羊飼いを演じた沙央(さおう)くらまさんは、オイディプスにとって罪と過ちの元凶であり、真実の鍵でもある役を巧みに演じていらした。この羊飼いの善意からの行いが、恐ろしい予言を現実にしてしまったのだ。オイディプスは本当の父と知らないまま父を手にかけ、母と知らないまま母を后としてしまった。人としてこれ以上の罪はない……救いようのない苦しみが、オイディプスを襲う。

「いたいけな赤ん坊の命を救う」という人として正しい行いをした羊飼いが、その正義感と優しさによって生涯大きな後悔を抱え込んでいた。感情を抑えた表情でも、「死ぬまで口にしない」と決めた過去を語ろうとする羊飼いの様子には緊張感が漲り、その場の空気を変えた。真実を告げられるオイディプスの不安と恐怖が、観客にも伝わる。忌まわしい記憶を語る老人の辛さが、沙央さんの振り絞る声や後悔の念を曝け出した演技に表れていた。

 そして、オイディプスこそが先王ライオスの息子であり、また罪深い殺害者だったという、あまりにも悲しい過去が明らかになるのだ。

それでも、生きていく

 戯曲のエピローグ、目を背けたくなるほど悲惨なオイディプスの姿が描かれる。自らの呪われた出自を知り、抱えきれない罪の重さにのたうちまわるオイディプスは、后であり母親だったイオカステの自害を目の当たりにする。

 オイディプスは命果てた后の、上着の金の留金を取って、自分の両眼を突き刺した。

〈この上、何があるというのか、なおもこの目で見るべきものが、この耳で喜んで聞きたい歓迎の言葉が、そして俺のいとおしむべき何かが、それが俺に残っているとでもいうのか?〉

 盲目となって生き続ける人生、それはこれまでオイディプスが築いてきた輝かしい生涯を、すべて打ち壊す道だった。死を超える罰を、彼は自分自身に与えた。死に逃げず、狂気に逃げず、生きる道を選んだ。

 悲しいことに、時として、死ぬ勇気は生きる勇気を上回ることがある。自らの意志で人生を終わらせるのは、その人なりの理由と気持ちがあり、行動の善悪を部外者が判断することはできないと私は思っている。オイディプスのことを考えた時、逃れようのない辛苦に見舞われた彼は、私から見れば、生きる道が閉ざされているように見える。だが、オイディプスは死を選ばない。その勇気ゆえに、彼の罪は消えず、苦しみは終わらないのだ。

 古代ギリシャ神話は連綿と続く長大な物語だ。先王ライオスもまた、過ちを犯し、神より罰を受けている。我が子に殺されるという運命も、もとは彼自身の行いが招いたともいえるのだ。この「オイディプス王」は、紀元前という気が遠くなるような昔に書かれた。しかし決して、そこに生きていた彼らと私たちに隔たりはない。いつの時代も人は愚かな失敗を繰り返すものであり、完全に清廉潔白な人物などほとんどいないと物語は伝えている。

 もう二度と光の戻らない眼で、オイディプスはこちらに語りかける。生まれた時から罪と苦しみを背負っていても、人間は生きていかなくてはならないのだ、と。

 幸福な人生だったか、立派な人だったか、人生を終える最後の瞬間まで誰にも分からない。人間にできることはただ、正しいと思うことを日々重ねていくだけだ。何一つ報われないかもしれないと思いつつ、自らに誠実に、他者を思いやり、頑張って生きるしかない。

〈あなたは幸多き船旅の後に、この館を最後の港と見たのであろうが、如何にもそれは最後の港、そこであなたを寿(ことほ)いでくれた婚礼の歌声が何を意味するかに気附いた時、あなたの振り絞る叫び声に震え戦(おのの)かぬ港がこの世のどこにあろうか。〉

 盲目の預言者がオイディプスに告げたこの台詞の、なんと恐ろしいことだろうか。神の力を持たない人間は、たとえそれがずっと昔からさだめられた破滅への道であっても、ひたすら歩み続けるほかはないのだ。

 舞台「オイディプス」のラストシーンには、わずかな希望が見える。悲しみの放浪の果てにオイディプスが辿り着く未来が示されるのだ。

 いつかさす光を求めて、オイディプスは一歩先も見えない闇の中を歩いて行く。

 その哀れな姿とおぼつかない歩みに、舞台が終幕しても心が晴れることはない。「オイディプス王」の舞台には、「答え」や「教え」は提示されない。血の涙を流してのたうちまわるオイディプスの姿が、私の心に何を残したか。観客は忘れがたいいくつものシーンを長く記憶に留め、考え、求め続けるしかないのだ。

 オイディプスの過去を告白した老羊飼いが語った、先王ライオスを殺めた者の姿は、一観客である私の心に確かに刻まれている。

〈その者は、盗賊ですらなかった。ただの、哀れな、一人の若者だったのです〉

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