ザ・ブックレビュー 宝塚の本箱
2021/06/15

復讐するのは憎しみゆえか、愛ゆえか――塩野七生の傑作小説から元タカラジェンヌが真剣に考えてみた

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イラスト:はるな檸檬

 雪組全国ツアー公演「ヴェネチアの紋章/ル・ポァゾン 愛の媚薬-Again-」
千秋楽の本日、元宝塚雪組、早花まこさんによるブックレビューをお届けします。

 今回取り上げるのは「ヴェネチアの紋章」の原作で、塩野七生さんによる傑作小説『小説 イタリア・ルネサンス1 ヴェネツィア』。はるな檸檬さんの情熱的なイラストも必見です!

 ***

ヴェネツィアの空と海

 紺碧に輝く海原を越え、長旅を終えた船が港へ戻ってくる。

〈いつものヴェネツィアが、そこにあった。マルコの見慣れている祖国が、眼の前に息づいている。〉

 それは16世紀、現在はイタリア北東部にある都市のひとつが、まだ共和国だった頃だ。スペインとトルコの間では、ヨーロッパの覇権を巡る攻防が続いていた。

『小説 イタリア・ルネサンス1 ヴェネツィア』は、塩野七生さんによる傑作歴史長編小説である。1988年に発表された『聖マルコ殺人事件」を改題、改稿した作品だ。

 宝塚歌劇団では、柴田侑宏先生の脚本・演出により、「ヴェネチアの紋章」のタイトルで1991年に花組で上演された。トップスター・大浦みずきさんの卒業公演でもあり、ドラマティックかつ重厚なこの作品は大好評を博した。今年2021年6月には雪組全国ツアー公演として再演され、謝珠栄先生の新演出にて名作が甦ったと話題を呼んだ。

 ルネサンス期のイタリアを舞台にした作品は、宝塚では数多く上演されている。演目によって多少違いはあるものの、男役は羽飾りのついた帽子を被ったり、長い髪をなびかせたりと、華やかな出で立ちで観客を楽しませる。

 そのような演目では、娘役も、カラフルなドレスや装飾品が多いことが特徴だ。ヴェネツィアのビーズを使ったアクセサリーを着けるなど、各自がこだわりを発揮していた。

 金色の髪を編み上げたヘアスタイルや、中世時代特有の巻き毛を付けた鬘を整えるのは苦労もあったが、舞台の幕が開くと心が浮き立ったことを思い出す。

 ヴェネツィア貴族の家に生まれたマルコと、ヴェネツィア元首の庶子であるアルヴィーゼ。8歳の時に私塾で出会ってから、彼らはともに満ち足りた青春時代を過ごした。

 アルヴィーゼは、常に周囲から一目置かれる存在だった。語学が堪能な上に美しい顔立ち。「名誉ある孤立」と表現される、ミステリアスな雰囲気をも纏っていた。マルコの視点で描かれるアルヴィーゼの数々の美点は、マルコがいかにこの友を好ましく思っていたかを物語っていて微笑ましい。

 一方マルコも、評判の良い青年だ。若々しく「しっかりとした気質」を持っている彼は、アルヴィーゼにとって気心の知れた大切な友人であった。

 20歳で学業を終えて別々の道を歩んだ二人が、およそ10年後に再会するところから、この物語が始まる。

二人の主役

 小説ではマルコを主軸としながら、物語の中心である「もう一人の主役」アルヴィーゼを描いている。

 それに対して、「ヴェネチアの紋章」の主人公はアルヴィーゼだ。

 大浦さんが演じたアルヴィーゼは、「美しい」、「格好良い」という言葉では表現し切れない魅力を宿していた。

 それは、マルコによって「無限の優しさがある」と語られ、運命に立ち向かう勇敢さを備えた青年だった。学業よりも賭博と女に才能を発揮し、仲間たちから感嘆される。たった一人の女性を愛し抜いて、その人柄は敵からも好かれてしまう、アルヴィーゼという男そのものだった。

〈眼は、人の話に耳をかたむけるときは、アクアマリンの水色をたたえ、何かを主張するときは、エメラルドの緑色に輝く。〉

 小説では、彼の意志の強さ、心の中にある芯のようなものが、瞳の色として描写されている。

大浦さんのアルヴィーゼは、まさしく瞳の色が変わったか、と思うほど鮮やかに表情を変化させていた。

 ヴェネツィアでは貴族として認められない彼は、ハンガリーの王位を望むようになる。それは、愛する女性を王妃として迎えたいという願いからだった。己の立場を顧みず、トルコ軍を率いてハンガリーを攻めると決意する場面では、若い血潮の燃え上がる様が猛々しく表現される。

 マルコとの二重唱で、アルヴィーゼは昂る心を歌い上げる。

〈轟け! ここよりはるかに湧き上がれ 今より永遠に 野を駆け 星に眠る 戦士の挽歌となれ〉

 それは、マルコの冷静さとは対照的だ。国家の平和を保つことが使命である彼は、友が破滅へと突き進むのではないかと危惧する。

「アルヴィーゼ、モレッカはおまえのものだ」

 アルヴィーゼの恋人は、大物貴族プリウリの奥方、リヴィアである。

 アルヴィーゼが「ヴェネチアの紋章」と呼ぶ地位と名誉を手に入れたいと願うのは、ヴェネツィアの名門貴族の生まれであるリヴィアとの、晴れやかな結婚を実現するためだった。

 小説が舞台化された際にどう演じられるか、期待が高まるのは舞踏会の場面だ。

 ヴェネツィア元首の孫娘の結婚祝いに、着飾った貴族たちが一堂に会する夜。鈴を手に、二人一組で足を踏み鳴らして踊る「モレッカ」と呼ばれる舞踏が始まり、アルヴィーゼとリヴィアがともに舞い始める。

 父である元首が誇るほどのモレッカの名手である、親友の踊りはもちろんのこと、貞淑で物静かな「プリウリの奥方」が別人のように激しく踊る姿に、マルコは驚き目を瞠る。

〈互いに見つめ合いながら踊る二人の眼は、解けそうもないほどにかたく結ばれ、この二人の他には、誰も存在しないかのようであった。〉

 小説でこう表されたダンスは、「ヴェネチアの紋章」の見せ場のひとつだ。

 燭台の明かりを思わせる照明の中、大浦さんと、リヴィアを演じたひびき美都さんが踊る。微かな呼吸までもがぴたりと重なるダンスは、神聖な儀式のようでもあった。

 恋情を揺らめかせて踊る二人の姿。それは道ならぬ恋でありながら、観る者に何も言わせない強さを秘めていた。観客は、まるで舞踏会に出席している客の一人になったような気持ちで、アルヴィーゼとリヴィアをただただ見守る。

 雪組の全国ツアー公演の同場面は、煌びやかな夜会に複雑な人間模様が浮かび上がり、ダンスナンバーとしても演劇としても深い意味合いを持っていた。

 リヴィアが夫の元を離れ、愛しいアルヴィーゼに歩み寄る一瞬の緊張感。笑いさざめく貴族たちが垣間見せる物憂げな表情。

 舞台では、鈴を鳴らす男女による華やかな群舞が続く。その中でアルヴィーゼ役、トップスター・彩風咲奈さんと、リヴィア役のトップ娘役・朝月希和さんがひときわ美しく躍動的だった。

 マルコが感じた、モレッカに漂う二人のただならぬ情熱は、この先の物語を大きく動かしていくことになる。

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