人見るもよし 人見ざるもよし 前田速夫『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』

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「新しき村」の百年

『「新しき村」の百年』

著者
前田 速夫 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
社会科学/社会
ISBN
9784106107436
発売日
2017/11/17
価格
836円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

人見るもよし 人見ざるもよし

[レビュアー] 前田速夫(民俗研究家)

 若き日、武者小路実篤の「友情」や「愛と死」を読んで感動した人たちは、いま老年期を迎えている。若い人たちの多くは、武者小路実篤の名前すら、よくは知らないのではないか。まして、「新しき村」と聞いて、それが何であるかを知る人は限られていよう。

 満三十三歳の実篤が、宮崎県日向に土地を求めて、自他共生、人類共生の理想を実現しようと、同志二十名(うち子供二)と、農業による自給自足を目標に、各人の個性を最大限に発揮しうる共同体を起ち上げたのは、大正七年(一九一八)十一月のことであった。

 現実を知らぬ愚挙、暴挙であるとして、当時はその「お目出たさ」をさんざん叩かれた新しき村は、その後も、村民同士の内紛や離反、ダム湖建設による水没、埼玉県への移住、実篤の死去と、幾度も存亡の危機に遭いながら、大正、昭和、平成と生き延びて、来年、創立百年を迎える。これは、国内外の他のユートピア共同体の多くが、雲散霧消してしまったのにくらべて、奇跡に近い。

 ところがその村も、近年は自活の原動力だった養鶏の不振・廃止による赤字の累積、村民の超高齢化と人口減少(ピーク時には六十五名が、現在は十名)、後継者難と、四重苦にあえいでいて、このままでは、消滅を免れない運命にある。

 折しも、日本は、世界は、民族や国家、地域や家族といった、人と人とを結ぶ中間項が機能不全に陥って、格差は広がるばかり、国益が衝突して戦争の脅威が増すその一方で、社会全体が液状化している。

 すなわち、武者小路実篤が唱えた理想と、その実践であるコミュニティのありかたが、いまほど切実に求められるときはなく、百年たって、ようやくその真価が認められるようになったこのときに、村が消えていくとは、なんとも皮肉なことだ。

 けれども、これは一新しき村の問題ではない。村が直面している困難は、今日の日本が、世界が直面している困難に等しく、村が百年を超えて生き延びられるかどうかを問うことは、今日の日本が、世界が生き延びられるかどうかを問うに等しいと言ったら、おおげさだろうか。

「君は君 我は我なり されど仲よき」――個よりも全体を優先させる世の常の共同体とは違って、全体よりも個を重視する、この世界的にも稀な美質を持つ新しき村が、百年も続いたのはなぜか。現在の苦境から脱するには、いったいどうすればよいのか。一個人には手に余る問題をも含めて、あれこれ考えてみた。

 ちなみに、筆者は出版社に入社して早々、実篤の長編自伝小説「一人の男」の雑誌連載を担当している。「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」と、先生は苦笑しているであろうか。

新潮社 波
2017年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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