洋楽ロック史を彩るライヴ伝説 ウドー音楽事務所監修/編集協力、赤尾美香編集

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洋楽ロック史を彩るライヴ伝説 ウドー音楽事務所監修/編集協力、赤尾美香編集

[レビュアー] 篠崎弘(音楽評論家)

◆巨大産業の一翼担った50年

 一九七〇年代以降、欧米のロックアーティストを日本に紹介してきた二大招聘(しょうへい)元がキョードー東京とウドー音楽事務所だ。六六年のビートルズ来日を手掛けた協同企画を母体とするキョードー東京は、「ロック・カーニバル」シリーズでブラッド・スウェット&ティアーズやグランド・ファンク・レイルロード(GFR)、レッド・ツェッペリンらを招聘してきたが、やがて「ラブ・サウンズ」と銘打つイージーリスニング路線に軸足を移した。それ以降、欧米の主なロックアーティスト招聘の大半はウドーが手掛けてきた。第一弾は七二年二月のクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルだった。以来半世紀。「ロックのウドー」の歩みをまとめたのが本書だ。

 この間にロックは巨大産業化した。ビートルズが乗ってきたのは一般のJAL機だった。羽田に降りる四人の写真をご記憶の方も多いだろう。主な機材も国内で調達した。それから四半世紀後の九〇年に初来日したザ・ローリング・ストーンズは、機材からキッチン用品までの輸送に世界最大の輸送機アントノフ四機を使い、陸送にはトレーラーが二百台。来日クルーは約百五十人だった。

 七〇年代、アーティストはヤンチャだったし、ファンも熱かった。そもそもキョードーがロックと距離を取ったのも、七一年のGFRのコンサートで会場に入れなかったファンが金網を破って乱入するなど、騒動が続いたためだった。だが、いかにも物騒なハードロック/ヘヴィーメタル系のバンドは意外にまともで温和で、ポップス系の方が厄介だったと、長年ツアーのマネージャーを務めてきたウドーのスタッフは言う。

 エリック・クラプトンがステージで吸うたばこの許可に書類や図面が十枚も必要だったなど、年季の入ったロックファンには興味深い裏話もぎっしり詰め込まれている。巻末の海外アーティスト公演の全記録も読ませる。帯の「あのときわたしたちはそこにいた」のコピーに頷(うなず)く人も多いだろう。

(シンコーミュージック・エンタテイメント・2420円)

ウドー音楽事務所は1967年、有働誠次郎が設立。

◆もう1冊

内野二朗著『夢のワルツ 音楽プロモーターが綴る“戦後秘史”50年』(講談社)。キョードー東京の創立者の遺著。古書で入手可能。

中日新聞 東京新聞
2021年10月10日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

中日新聞 東京新聞

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