ブッカー国際賞受賞作家が〈出会い〉を描いた感動作
[レビュアー] 都甲幸治(翻訳家・早稲田大学教授)
極度に敏感な人々がいる。本書の主人公である女性もその一人だ。自分の発した言葉にさえ肌がひりつく。道行く車は轟音を発し、歩行者は肘で突きかかってくる。だから母親を亡くし、直後に離婚の裁判に負けて一人息子の養育権を失った彼女は、言葉を発する力をなくしてしまう。
一日中、樹木の根や枝を眺め、夜はへとへとになるまで街を歩き続ける。こんなことではいけない。彼女はカルチャーセンターで古典ギリシャ語を習い始める。まるで古代の言葉が、彼女の中に埋もれた音を引き出してくれるように。
そこで出会った教師も大事なものをなくしていた。人生の半分の時をドイツで過ごした彼は、愛する人を失い、母語の響くソウルに戻ってきた。遺伝性の眼病を患う彼にとって、残された時間はわずかだ。
偶然のように二人の人生は交わり、彼等は大切なものを分かち合う。もちろん、子供は返ってこないし、視力は戻らない。それでも、ぎこちない愛の兆しが、読む者の心の中にある氷を溶かす。
一九七〇年生まれのハン・ガンはデビュー以来、社会の片隅で苦しむ人々を描いてきた。二〇一六年にブッカー国際賞を獲得した彼女は今や韓国文学を代表する存在だ。受賞作『菜食主義者』の主人公である女性は、男性の支配する暴力的な世界を拒絶して、食べることを止めてしまう。
だが本書にはその先の、微かな明かりが存在する。かつて愛する人に刻み込まれた教師の顔の傷を、主人公は「涙が流れた跡を示す古地図のようだ」と思う。そして近づいてきた彼の顔の中に、温かな鳥のようなものを感じる。それは再び彼女を傷つけるかもしれない。それでも主人公は、その生命を受け入れる。「爪を過剰に短く切った、彼の肌を少しも傷めなかった指」を持つ彼女は、少なくとも自分だけは、他者に優しくあろうとしている。世界に対する柔らかさを保ち続けるハン・ガンの意志は強い。