『知性は死なない 平成の鬱をこえて』
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病を得て初めて見直せた知性への「信奉」と「絶対性」
[レビュアー] 大竹昭子(作家)
大学教員が躁鬱病を経たのち、復職せずに在野で生きていく道を選ぶ。そう決意した理由が平成の時代と世界情勢を絡めて描かれる。病の原因は時代状況にあるという話か。いや、そうではない。
長年、言語主体の生活を送ってきた。知識を蓄えるのにも、考えを進めるのにも言葉が使われ、それが自己を拡大させる。発症したときの実感を「引っぱりすぎたゴムひもが切れたかのように、いきなり破綻してもとの身体の大きさまで縮んでしまう」と表現。言葉の支配力に身体が悲鳴を上げたのだ。
それまでは知性への信奉が強かった。学者だから当然だろう。だが平成という世界秩序の転換期に、それまでの知性が機能不全に陥るのを国内外でも学内でも目撃。と同時に自らも読み書きがまったく出来なくなるという危機に襲われた。このように自己の内と外の両方で知性がむしばまれる体験をしたことが、時代と病を重ねるという視点に繋がった。知性を不変で絶対的なものと見なす考えを、病を得て見直したのだ。
「反知性主義」「ポピュリズム」「グローバリズム」など一見「知的」な響きをもつ言葉が増えている昨今だ。だがそれらの使われ方は表層的で、むしろ考える力を鈍化させる方向にある。身体の声を聞き、感覚を研ぎ澄ませて、現実を疑い考える知力をどのように養えばいいのか。
教育に予算をとったり、競争意識をあおって学力を増強しても無理。個の能力差は歴然とあるし、だれもが高度の知性に到達できるわけではない。その意味で能力の分配は平等ではないが、私有財産でもない。能力はそれを受け取る人がいて初めて活きるのだから。重要なのは能力の共有化であり、それを可能にする空間を生み出すこと。療養中に同病の仲間たちと出会ったことがその確信に導いたという。一つのジャンルに収まりきらない、著者のパッションがみなぎる好著である。