細かいところが気になりすぎて―ツッコミ中毒者の日々―
2024/02/16

親父が生きていたら一緒に酒を飲みたかった…ヘビースモーカーで本好きの父の面影を銀シャリ橋本が語る

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人気お笑いコンビ・銀シャリ橋本直さんが文芸誌「波」で綴るのは、どうしてもツッコまずにはいられない、そんな“ツッコミ中毒”な日々。第16回のテーマは「親父のこと」です。相方・鰻和弘さんの4コマ漫画もあわせてお楽しみください

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 うちの親父は46歳で亡くなっている。僕が高校一年生の時だった。親父はえげつないくらいに本が好きだった。

 僕が子供の頃に住んでいた家は、小さな一軒家だった。2階にある親父の部屋は仕事机とベッド以外は、四方八方を本棚で囲まれていた。テトリスなら全部が綺麗に消えるくらいの見事なハマり具合で、その本棚には本がびっちり詰め込まれていた。そして仕事が休みの日にはベッドで寝転びながら本を一日中読んでいるような人だった。

 挙げ句の果てに、僕が小学校の高学年になる頃には、玄関から台所に向かうそれはそれは短い廊下にも、いつの間にか天井ぎりぎりの高さの本棚が4台連なった。廊下の幅が半分になってしまった。それくらい本で溢れていた。

 ある日、親父は僕に「本やったら、なんぼでも買っていいぞ」と言い放った。酒に酔ってご機嫌でついつい気持ちが大きくなって言ってしまっただけかと思いきや、橋本家の新ルールとして翌日から正式に採用された。

 今思えば最高の、なんとも贅沢なサブスクを手に入れていたにもかかわらず、当時の僕は本には全く興味がなかった。漫画は大好きだったのだが、このサブスクには「ただし、漫画は本とみなさない」という注意書きが堂々と記載されていたので、あえなく撃沈した。「宝の持ち腐れ」ということわざを、これで学んだ。
 
 
 
 親父のことを考えるとすぐに思い出すのは、お正月に黒紋付に袴を穿く姿だ。その雰囲気というか情緒が僕は好きだった。人混みで誰かとぶつかってしまった際、「失敬」と言うような人でもあった。最初に聞いた時は衝撃で、「失敬て! 堅すぎるやろ、昔のドラマとかでしか聞いたことないぞ」と、子供心に強く思った。

 幼稚園くらいの頃、遊園地で親父と一緒にメリーゴーランドに乗っている写真がある。おそらく撮影者であるおかんの方を、「カメラこっちやで~」と僕に教えるように指差している一枚。その写真の親父はティアドロップのごっついサングラスをかけていた。『トップガン』の戦闘機から、「宝塚ファミリーランド」の馬に乗り換えた、ちっちゃいトム・クルーズがそこにいた。

 チェックのシャツをジーパンにインする服装を好んだ親父は、吉本の先輩芸人なだぎ武さんがモノマネするディラン・マッケイが乗っているような自転車を愛用していた。その自転車には、後輪側の右サイドに折りたたみ式のカゴが装備されていた。折りたたみサイドバスケットという名前らしい。前カゴが付いた自転車しか見たことがなかった僕は、なかなかのカルチャーショックを受けた。紋付き袴同様、その親父の自転車は格好いいと密かに思っていた。

 親父がたまにそれに乗ってふらっと出かけては帰ってくると、往路には折り畳まれていたはずのカゴが復路では広げられ、そのなかには本が何冊も入れられていたものだった。

 親父の一人での移動はもっぱら自転車で、なぜなら親父はあの当時の男性にしては珍しく車の免許を持っていなかったからだ。うちではいつも、おかんが運転していた。

 なぜ親父は運転しないのか、そのことを昔おかんに尋ねたことがある。「あ~お父さんね、免許を取りに行こうとしたことはあるんやけど、実車教習で教官と喧嘩して途中で降りて帰ってきたらしいねん」。嘘やろ? まさかすぎるやろ!? でも不思議と親父らしくもあって、思わず笑ってしまった。

 親父は普段からよく怒っていた。そしてかなりのせっかちだった。

 コーヒーが大好きだった親父は、僕をよく喫茶店に連れていってくれた。一度、注文したコーヒーがなかなか来ない時があった。僕の感覚ではそれでも「少し遅いかな」というくらい。だが、親父はノーモーションでキレた。「注文したコーヒーって通ってます?」という助走部分はなく、いきなり「遅すぎるやろ!!!」と。「いやいや、そんなに怒ったところでコーヒー来るの早ならへんし、気まずくなるだけやがな」と、子供ながらに僕は冷静だった。火に油を注ぐことになるから、もちろん口には出さない。『ちびまる子ちゃん』の口グセ「あたしゃ勘弁だよ」よろしく、心の中で俯瞰しながら親父にツッコミまくっていたのが多分僕の原点で、ツッコミの英才教育を知らぬ間に受けていたのか。

 その後も親父がお店の人にキレているところを何回も見るハメになった。僕はそれがすごく嫌で、親父を反面教師に、絶対にこんなにすぐ怒る人にはならないでおこうと心に誓った。なので、僕は人に怒ることができない。どれだけ理不尽なことがあっても怒れない体になってしまった。ストレスがたまる。

 反面教師と言えば、親父はかなりのヘビースモーカーだった。ハイライトをよく吸っていた。おかんが運転する車の助手席で、居間のテーブルで、喫茶店で、本を読みながらベッドで……。おいしそうに、でも少しも笑わずに、吸っていた。あまりによく吸っていたからか、慣れるよりもむしろ、おかんも妹も僕も、家族全員がずっと、タバコの匂いが苦手だった。成人しても、僕も妹も一切タバコを吸わなかった。

 でも妹は働き出してから少し吸っていた時期があるとおかんに聞いたことがある。おいおい、あれだけみんなで煙たがってたやないか、なに裏切ってくれてんねんと思った記憶がある。
 
 
 
 僕の家にはダイニングキッチンと呼ぶにはおこがましい、台所のある狭くて昭和的な部屋にテレビがあった。そのテレビは少し小さめで、メインのテレビはリビングにあったから、あくまで2台目のテレビといった感じだった。

 家の構造的に、ダイニングキッチンの奥に洗面台とお風呂があったので、お風呂に入るためには必然的にダイニングキッチンを通らなければならない。中学一年生くらいの頃、親父に「早く風呂に入りなさい」とよく怒られていた。

 最初は軽めに「風呂入りなさい」と言われる程度なのが、夜の11時を過ぎてくるとだんだん語気が強くなってくる。その理由はしばらくして分かった。親父は、夜11時半から始まるローカルネットのエッチな番組を見たかったのだ。ダイニングキッチンのテレビで見たいがために、早くお風呂に入って欲しかったわけだ。

 その番組の放送中に、僕がお風呂に入ろうとダイニングキッチンを横切ると、すぐさまチャンネルを替えたことがあって、さすがに子供の僕でも気が付いた。わかりやす過ぎるぞ親父! でも、思春期を迎えていた僕は、同じ男としてその気持ちと行動は理解できた。あまりにもわかりやすいが、それもまたチャーミングやなぁと。

 照れ臭いのか、僕や妹をわかりやすく可愛がることはしない人だった。

 僕がまだ幼稚園の年長くらいで、親父が仕事終わりにお酒を飲んで、帰宅が遅くなった時のこと。スーツ姿のまま、おかんと川の字で寝ている僕と妹に近づいてきて、僕らの頭をなでて頬に頬ずりをする。もちろん愛情表現なのは子供ながらに理解していたが、なんせタバコとお酒と加齢臭も相まってなかなかの匂いを放ってくるのだ。しかも近距離でだから厳しいものがある。でも、拒否したらきっと怒られるから、僕は寝たふりをしてやり過ごす。

 妹は僕よりもピュアというかアホというか正直すぎるので、寝たふりをする技を使わずに「もー、お父さんくさい~!」と本音を言ってしまう。すると、傷ついた親父にプチ逆ギレされるというのがいつものパターンで、「なぜこいつは学ばないんだ」とつくづく感じたものだ。
 
 
 
 親父はアメリカンフットボールのことを「アメラグ」と言っていた。「アメリカのラグビー」という意味で、おそらく昔の人の言い方だろう。そんな「アメラグ」が親父は大好きだった。

 敢えてここではアメラグと書かせてもらうが、当時ファミコンにアメラグのソフトがあってそれを友達から借りてきたことがあった。妹とハマってそのゲームをしばらくやっていたが、普段ファミコンには興味を示さない親父がアメラグのソフトということで珍しく「ちょっと一緒にやらしてくれ」とお願いしてきた。

 僕と親父で対戦することになったのだが、親父は基本、パスプレー中心。パスは多くの距離を稼げるから、一気に得点のチャンスになる。とはいっても、実際の試合とゲームとでは違う。ファミコンのこのゲームにおいては、なかなかパスが通らない。それを知っている僕はラン攻撃中心に攻め立てる。とにかく選手を走らせるのだ。結果は僕の圧勝。2試合くらいはしたと思うが、2戦とも僕の勝利だった。親父はゆっくりと自分の部屋へ帰って行った。


漫画:銀シャリ・鰻和弘さん

 後日おかんに聞くと親父はかなり怒っていたらしい。「え! なんか怒られるようなことした?」と思って聞いたら、「直(僕の下の名前)が、ラン攻撃ばっかり使ってきてズルいやろ」と怒っていたらしい。いや、その怒り方、逆やろ! 子供が大人にキレる時のやつやん。怒っているというよりは、拗ねていたなとおかんも言っていた。
 
 
 
 こうやって思い出していくと、時代のせいもあったかもしれないが、親父は、なかなかキャラが強かったんだなと改めて思う。そして同時に考えるのは、もし親父が生きていたら、僕はお笑い芸人になれていなかったかもしれない、ということだ。

 親父は昔気質(むかしかたぎ)の性格な上、仕事に真面目な銀行員だったので、お笑い芸人なんてとんでもない、ちゃんと就職しろとおそらく言われていただろう。親父の娯楽は本と映画で、エンタメの中でお笑いはごっそり抜け落ちている感じだった。

 ただ、本棚に落語の本が何冊か入っていて、枝雀師匠のカセットテープが置かれていたことはよく覚えている。どうやら落語は好きだったみたいだ。

 だから、反対はされたかもしれないし、もしかしたら勘当されるくらいに怒られたかもしれないけれど、僕ら銀シャリがM-1グランプリで優勝した時もし親父が生きていたら、おそらく、「あれ俺の息子やねん、すごいやろ!」と、会社の人に自慢しまくったであろう光景が、なぜだか鮮明に、くっきりと目に浮かぶのだ。不思議だ。

 でもすべてはタラレバの話で、「親父がまだ生きていた世界線」がどうだったかは、今もこの先もわからない。

 僕としては、今の僕らの漫才について、あれだけ本を読んでいた親父の感想や考察を、酒を酌み交わしながら聞いてみたい気もする。

 そして今、僕は本がめちゃくちゃ好きになっている。今こそあの「本やったら、なんぼでも買っていいぞ」のサブスクに加入したいものだ。

 あと2年で僕も46歳になる。

(銀シャリ橋本直さんのエッセイの連載は毎月第3金曜日にブックバンで公開。橋本さんの“ツッコミ中毒”な日々が綴られます)

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橋本直(はしもと・なお)
1980年生まれ。兵庫県出身。関西学院大学経済学部を卒業後、2005年に鰻和弘とお笑いコンビ「銀シャリ」を結成し、2016年に「M-1グランプリ」で優勝。現在はテレビやラジオ、劇場を中心に活躍し、幅広い世代から人気を得ている。

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