<新しい文学が生まれる場所>韓国『新世代』の作家たち

対談・鼎談

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鼎談=斎藤真理子、古川綾子、すんみ<新しい文学が生まれる場所>韓国『新世代』の作家たち〈韓国文学のオクリモノ〉シリーズ(晶文社)全六冊完結

◇崩壊した後にどのような世界があるのか キム・グミ

すんみ
すんみ

 すんみ キム・グミさんの『あまりにも真昼の恋愛』の表題作は、ピリョンという主人公が、昔、恋愛のような関係にあった後輩を思い出して、青春を思い返している小説かと思って読んでいました。表題作の他にも職場を失ったり、犬を失ったりしている登場人物たちが出てきて、何かの喪失感を描いている小説だと思った。最初の短編集『センチメンタルも毎日だと』には、IMF通貨危機後の話が書かれていて、キム・エランさんの『走れ、オヤジ殿』のように貧困や社会の不条理を書いている作品だという印象があったんです。ただ『あまりにも真昼の恋愛』の場合は、「肉」や「犬を待つこと」に中産階級の人たちの不安や危機感が描かれていて、崩壊や破綻の物語が特定の階級に限定されたテーマではないということを示しています。もっと広くて普遍的な世界の崩壊を描いていると思うんです。
 だとしたら、キム・グミさんが描く世界、登場人物たちが抱いている喪失感は、日本でも同じではないかと思いました。日本でも、九〇年代初頭にバブル経済が崩壊して、〇八年にリーマン・ショックがありました。私の周りにもリーマン・ショックで内定取り消しになって苦労する人がたくさんいました。そんな状況を経験してきた日本の読者なら、この小説に共感できるのではないかと思って、日本でも紹介したいと思ったんです。ですが、翻訳していく中で、その印象がずいぶん変わりました。キム・グミさんは世界が崩れるところを描いているのではないことに気付いたんです。そうではなくて、すでに崩れた後の話をしている。今までの世界が崩れ、足場をなくしてしまった人の話を描いている。足場をなくして居場所がないから、犬を探しまわったり職場でも迷子になったりする。「猫はどのようにして鍛えられるのか」の最後で、主人公が煙突に登る場面は非常に象徴的だと思います。
 その先で主人公たちが何をしているかというと、新しい世界を探し求めています。今自分のいる場所が崩れた後にどのような世界があるのか、どのような世界を見つけることが出来るのかというところでもがいているんです。
 しかし、新しい世界はそう簡単に提示できるものではありません。キム・グミさんにもそれがわかっていて、この小説の中でもあるカタチを持った社会や世界として提示されることはありません。「なにか」という言葉でしか表現できない気配や空気感だけが漂っています。初期の短編小説「あなたの国に」にも新しい世界をめぐる話が出てきます。この小説の主人公は、漫画の新人賞に応募するために新しい世界が生まれるという内容の漫画を描いているんです。「クグリクグリ」という名前まで付けて、かなり具体化された世界を提示するわけです。ですが、その漫画は落選してしまいます。その場面を読んで、新しい世界というものは簡単には提示できないものだということを物語っていると思いました。彼女は初期からそのことを意識している作家だと思います。

◇三者三様、それぞれの韓国

 古川 私は韓国の大学院に通って、現地で仕事もしていたので、八年くらい住みました。今は翻訳や教える仕事をしながら、神保町の「CHEKCCORI(チェッコリ)」という韓国専門のブックカフェで日替わり店長もしています。韓国で今読まれている本に触れられる貴重な空間です。

 すんみ 私は逆ヴァージョンで(笑)、韓国から日本に留学して一三年日本にいます。翻訳のほか、ライターをしながら書評も書いています。

 斎藤 私が韓国語の勉強を始めたのはすごく古くて一九八〇年ですが、住んだのは九〇年代の始めの一年半くらい。その後は遠ざかっていて全然違う仕事をしていました。

 古川 でも斎藤さんの詩集『入国』(一九九三年、韓国・民音社/二〇一八年、韓国・春の日の本より再刊)は韓国で初めて日本人の書いた詩集として刊行されたんですよね。

 すんみ 韓国の作家に衝撃として受けとめられていたんですね。『美しさが僕をさげすむ』(呉永雅訳、クオン)の著者ウン・ヒギョンさんが、斎藤さんの詩から一文を取って本のタイトルにしたというエピソードもあります。最近、新装版が出て、それを読んだキム・グミさんがツイッターですごく良いと紹介されていたし、斎藤さんの言葉が韓国の作家に刺激を与えているようです。

 斎藤 九〇年代の始めごろの韓国って、「何でもあり」というムードがあったと思います。みんなが新しいもの、変わったものを求めていて、民主化から五年も経っていなかったので、出版社も元気が良く、何でも出すというような感じだった。寛容だったなと思います。当時、韓国の出版社から校正が届いたときに「まず申し上げたいことは、何が書いてあるかわかるようにしてくれということです」と書いてあって、でもゲラを読んでみると確かに私にも何が書いてあるのかわからなかった(笑)。

週刊読書人
2018年5月4日号(第3237号) 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読書人

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