『医師が死を語るとき』
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医師が死を語るとき 脳外科医マーシュの自省 ヘンリー・マーシュ著
[レビュアー] 若松英輔(批評家)
◆言葉を超えた神秘に向き合う
この本を手にしたきっかけは二つあった。一つは死の臨床に数多く接してきた脳神経外科医である著者の死生観、二つ目は死の問題を自己の心理学の核に据えた心理学者ユングの紹介者として定評のある訳者が本書を担当していたからだった。だが、読後の感想は予想を創造的に覆すものだった。著者が強い筆致で書くのは死が、いかに語り得ないかという実感だった。
死が差し迫った患者と、あるいは術後に予想される厳しい現実をめぐって近親者と対話する。このとき著者は、過去の事例や専門的な知識に頼らない。「数分のあいだ、私たちは黙ったまま座っていた。このような悲しい沈黙をたくさんのおしゃべりで埋めてしまわないようにするのはとても大切だ」。何も語らないのではない。むしろ、語り得ない現実を対話する相手と共有しようとするのである。こうしたことを一朝一夕に実現することはできない。「たくさんの長い沈黙を伴う、長い時間が必要となる」とも書いている。
死に際して、魂や死後の生を考える人がいる。著者はそれを否定しない。だが著者は、医師である自分には死後の生を考えることで得られる慰めが奪われている、と一度ならず書いている。ただ、その一方で何かを告白するようにこうも記す。
「この『私』とは、宇宙そのものと同じくらいの大いなる神秘なのだという考えに、私は多少の慰めを見出(みいだ)すようになった」
著者は今年七十一歳になる。二〇一〇年に大英帝国勲章を受勲している名の知れた人物であり、書き手としてもベストセラーを世に送り出した経験をもつ。本書は、いわば沈黙の自伝である。著者は自分の確信ではなく、むしろ迷いを告白する。医師としてだけでなく、一個の人間として、異性との問題まで率直に語る。その極点にある問題が死にほかならない。
この本で著者が言葉を尽くして伝えようとするのは、死という出来事は、いつも言葉を超えた場所で起こるという厳粛な事実なのである。
(大塚紳一郎訳、みすず書房・3520円)
1950年生まれ。イギリスを代表する脳神経外科医。
◆もう1冊
ヘンリー・マーシュ著『脳外科医マーシュの告白』(NHK出版)栗木さつき訳。