辞書のパイオニアに末孫が迫る

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

辞書のパイオニアに末孫が迫る

[レビュアー] 山村杳樹(ライター)

 国民的辞書としての『広辞苑』の名は広く知られているが、その編者・新村出については余り語られてこなかったのではないだろうか。本書は、新村出の末孫の手になる初の伝記で、「新村出の生涯」「真説『広辞苑』物語」「交友録」の三部で構成されている。

 新村出の実父・関口隆吉は徳川慶喜の側近幕臣で、後に山口県令から元老院議官に任命されている。出は次男にあたったが正妻の子ではなかった。父と同じく慶喜の側近だった新村猛雄の養子に入るが、姉・信は慶喜の側室だった。慶喜の家に出入りするようになった出は、慶喜の八女・国子に密かに思いを寄せていたという。静岡中学から一高へ進み、寮で同室となった辻善之助(『日本仏教史』の功績で文化勲章受章)から大きな影響を受けた。そして、若き歴史学者・上田萬年の講演を聴いたことが、後の彼の運命を決定づけることになる。

 上田に京都帝大に招かれた出は言語学を担当するが、独英仏への留学中に出会った、日本吉利支丹文献や天草本への興味も抱き続けた。吉利支丹文献に記された会話の音韻が、中世日本語の解明に有益と考えたからである。また、二五年もの長期に亘り京大図書館の館長を務めたことも特筆するに値する。

 天草版『伊曽保物語』の訳・校訂を刊行する傍ら、『南蛮更紗』をはじめとする多くの南蛮関連の著作を発表し、南蛮という言葉を広めたのも彼である。

 本書の特徴は、未公開の日記や書簡を駆使して、温厚な家庭人としての素顔を描き出しているところにある。

 昭和一二年に、当時、同志社大学教授だった次男の猛が、治安維持法により逮捕された折には、裁判長に宛て、早期釈放を懇願する自筆の嘆願書を提出している。また、戦争末期には、聖徳太子に傾倒し、十七条憲法のイタリア語訳などを手がけている。

 信州出身の出版人・岡茂雄が、昭和五(一九三〇)年に、中高生あるいは家庭向きの国語辞典の編集を持ちかけたとき、彼は一度は断っている。これが後に博文館から刊行される『辞苑』、すなわち『広辞苑』の前身である。この間、出は、大槻文彦の『言海』の増補改訂版『大言海』の仕上げにも携わっている。『広辞苑』は、終戦後の昭和三〇(一九五五)年、岩波書店から刊行された。収録二〇万語、定価二〇〇〇円。この功績により、翌年、出は文化勲章を受章した。交友関係では、谷崎潤一郎、柳田国男、土岐善麿、寿岳文章、大野晋、などが採りあげられているが、なんと言っても終生の友誼を結んだ歌人・佐佐木信綱の存在が大きい。また、妻亡き後、熱狂的なファンとなった高峰秀子との付き合いも微笑ましい。本書は、日本の辞書を領導した新村出を知るための基本書と言える。

新潮社 新潮45
2017年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク