大矢博子の推し活読書クラブ
2021/07/21

二宮和也主演「青の炎」凝り性で策士な主人公はまさにはまり役 ニノ担は原作読むしかない!

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 切りとったメロディー繰り返した皆さんこんにちは。ジャニーズ出演ドラマ/映画の原作小説を紹介するこのコラム、今回は久々にニノの映画から、懐かしの初単独主演作だ!

■二宮和也(嵐)・主演!「青の炎」(2003年、東宝)

 いやー、懐かしい。今から18年前、ニノが19歳のときの映画だ。嵐のデビューからまだ4年、「とまどいながら」や「ハダシの未来」の頃。この前年に「ピカ☆ンチ」が公開されたとはいえ、ジャニーズのデビュー組としては若手で、冠番組は深夜に1本……という時代である。

 そのタイミングで映画単独主演、共演はあややと聞いてアイドル映画?と思ったら原作が貴志祐介、演出が蜷川幸雄ってんだから軽く脳がバグったよね。だがこれが、のちに「硫黄島からの手紙」につながり、「大奥」「GANTZ」、そして「母と暮せば」へと駆け上っていく俳優・二宮和也の転換点だった。

 おっと、後先になってしまった。原作小説を紹介するんだった。原作は貴志祐介の同名小説『青の炎』(角川文庫)。貴志祐介といえば大野くんが主演した「鍵のかかった部屋」(2012年、フジテレビ)でファンの皆さんにもお馴染みかと。本書はホラー小説家としてデビューした著者が4作目にして初めて挑んだ、ホラーテイストのないミステリでもある。刊行は1999年10月25日。奇しくも嵐のデビュー直前だ。

 主人公は高校生の櫛森秀一。母と妹の3人暮らしだったところに、母が10年前に再婚しすぐに別れた曾根が居座り始めた。乱暴な曾根に母は強く出ることができず、妹は恐怖に震える日々。弁護士に相談し、法律が自分たちを守ってくれないことを知った秀一は、曾根を排除するための完全犯罪の計画を練る──。

 というのが原作・映画両方に共通する粗筋だ。原作からの大きな改編は、秀一のガールフレンドである紀子の性格。原作では秀一好き好きオーラがだだ漏れで、やたらと秀一に絡んでくる。それが物語を動かす一要因なのだが、映画では紀子をもっとミステリアスに設定していた。映画のラスト間際の、秀一と紀子がふたりで話す場面は原作には存在しない。

 また、映画の秀一には、考えを口に出して録音する習慣がある。痛みを言葉に置き換える作業だという。そのおかげで観客は彼の考えを知ることができるのだけれど、これも原作には登場しない設定だ。小説では内面も文章で書けるからね。他にも、警官と母親がふたりで話す場面も原作にはない。原作は秀一の一人称視点で語られるので、彼のいない場面は描かれないのだ。


イラスト・タテノカズヒロ

■原作の秀一はもっとニノっぽい!

 だがそれ以外の、たとえば殺人の方法などはかなり細部に至るまで原作通りに再現されていた。では細かい設定を除けば原作と映画はほぼ同じと言っていいのか? いやいや、確かに話の流れは同じだが、何をメインに見せるかが違うのだ。殺人計画を練る様子は映画ではダイジェストのように流れたが、原作はむしろここに秀一という人間のキャラが最も色濃く出ていると言っていい。

 具体的な殺害計画は第2章から始まり、主に第4章で描かれる。映画を見てからこの章を読むと驚くぞ。映画ではさくさく決まっていたように見える計画が、これほど多くの調べごとと試行錯誤と準備と実験の上に成り立っていたのかと。証拠を残さないこと、他殺に見えないこと、そのためにはどんな方法があるか、秀一は法医学の本を買って調べまくり、物理の知識で道具を選んでいく。一介の高校生ではできないこともあれば、逆に高校生だからこそのひらめきもある。この計画段階が第一の読みどころ。

 実はその前の第3章にも、秀一の性格を表す(映画ではカットされた)エピソードがある。秀一は『ドン・キホーテ』をヒントに、言葉を使って人を操るという実験を中学生の時にしているのだ。その対象が紀子で、紀子が秀一を好きなのは多分にそのときの影響があると見える。

 また、紀子と江の島でデートする場面も象徴的だ。恋人たちが鳴らすという「龍恋の鐘」を秀一と鳴らしたいというピュアな思いを抱いてデートに臨んだ紀子だったが、ひょんなことから暴力についての話になる。すると秀一は暴力の定義について語るのだ。紀子の反論に対して「それは、同義反復(トートロジー)だろ」と一蹴し、国際政治まで引き合いに出して持論を展開するのである。えっと、デートってなんだっけ……? 

 これらの章から何がわかるか。秀一ってば徹底的に分析し、思考し、実験をするタイプなのである。知識欲が旺盛で地頭がいいという言い方もできるが、マニアックで凝り性とも言える。作中、さまざまな文学作品に触れるのも特徴のひとつ。しかも弁が立つ。めちゃくちゃ立つ。映画の秀一は、心に冷たい炎を秘めた高校生という感じだったが、原作の秀一は策士だ。本来なら実行犯ではなく参謀タイプだよなあと思わせるキャラなのだ。

 てかさ、まだ実績もない段階で、よくぞこの役にニノを選んでくれたと思うよ。1999年の小説なのでネットやPCの描写は古いんだけど、2台のPCを用途に応じて使い分ける姿や、一度興味を持つと徹底的にマニアっぷりを発揮する様子とか、よく喋るとことか策士っぽさとか、原作の秀一は間違いなくニノのはまり役だ。むしろ映画の秀一より原作の秀一の方がニノっぽい。ニノ担は原作読むしかないぞ。

■「青の炎」の「青」が意味するもの

 ミステリには「倒叙ミステリ」というジャンルがある。犯人視点で犯行の様子がまず描かれ、警察なり探偵なりと対決するという構造を持つものをいう。倒叙ミステリの探偵役は犯人のミスを見つけ、追い詰めていくのが定石だ。

 この『青の炎』も倒叙ミステリだ。予想外の出来事やわずかなミスが、秀一の足をすくう。殺された側に同情の余地がない上、家族を思う秀一の事情がつぶさに描かれるため、窮地に追い込まれていく彼の様子はとても切ない。だが心情的な面を取り払ってみれば、「青の炎」の後半はまさに策士策に溺れる様子が描かれているのだ。

 ハッピーエンドではいけなかったのか。なぜこんな切ない結末にしたのか。そう考えたとき、思い当たるのは『青の炎』というタイトルだ。青は冷たさの比喩であり青春の青でもあると思われるが、もうひとつ、もしかしたら、未熟という意味もあるのではないか。青二才とか、まだ青いね、なんていうときの「青」である。

 原作で過剰なほどに描かれる、完全犯罪への傾倒。もちろんそれは家族を救うためなのだけれど、その方法が殺人しか思いつかなかったことと、それにマニアックなほどのめりこんだことは即ち、秀一の青さを意味しているように思えてならない。そしてそれは同時に、10代の子どもにここまでやらせてしまう大人の責任を問うていると感じられたのだ。自分にはできる、自分だけでできる──そう思っている子どもの憐れさが物語から立ちのぼる。だから彼は失敗しなくてはならなかったのではないだろうか。

 冒頭に書いたように、この映画に出演したときのニノは19歳で、嵐はまだ走り始めたところだった。嵐の「青の時代」と言っていい。今回、配信であらためて「青の炎」を見たが、公開当時とは違って「この当時のニノ」「この当時の嵐」を随所で思い出した。きっと秀一と同じように、若さゆえにぶつかる壁を多く体験したんだろうなあ、それを乗り越えてその後の嵐があるんだなあ、としみじみしてしまったのである。

 この13年後に日本アカデミー賞最優秀主演男優賞とるんだよ、と画面の中のニノに教えたくなった。「あ、そうなの?」とすんなり受け止められるか、「嘘でしょ?」と笑われるか、どっちだろう。

大矢博子
書評家。著書に「読み出したら止まらない!女子ミステリーマストリード100」など。小学生でフォーリーブスにハマったのを機に、ジャニーズを見つめ続けて40年。現在は嵐のニノ担。

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