大矢博子の推し活読書クラブ
2023/11/22

永瀬廉主演「法廷遊戯」理の原作と情の映画 お互いを補完しあう理想的なメディアミックス!

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 推しが演じるあの役は、原作ではどんなふうに描かれてる? ドラマや映画の原作小説を紹介するこのコラム、今回は絆と復讐が渦巻くノンストップ・トランアングル法廷ミステリ!

■永瀬廉(King & Prince)主演!「法廷遊戯」(東映・2023)

 無辜ゲームがサバトみたいになってた!

 いやすみません、ちょっとインパクト強かったもので。まずはいつも通り原作の紹介からいこう。原作は五十嵐律人のデビュー作にしてメフィスト賞受賞作『法廷遊戯』(講談社文庫)。現在は弁護士の著者が司法修習生(司法試験合格後の研修期間)時代に書いた作品である。

 物語の始まりは、法曹界を目指す学生が集うロースクールだ。そこでは無辜ゲームと呼ばれる疑似裁判が行われていた。学生が何らかの被害にあったとき、証拠を集め犯人を特定し、無辜ゲームの開廷を申請する。審判を下すのは、他の学生とは一線を画す天才ロースクール生の結城馨(北村匠海)だ。

 ある日、このロースクールの学生である久我清義(永瀬廉)が児童養護施設出身であることと、かつて傷害事件を起こしていたことを暴露する文書が配られた。清義は看過できず、無辜ゲームの開廷を要請。怪文書配布を目撃した美鈴(杉咲花)の証言を得て、犯人を罰するに至った。しかしその後、今度は織本美鈴の周囲で不穏な事件が相次ぐ。実は美鈴も清義と同じ施設出身で、ふたりにとっては暴かれたくない過去がそこにあったのだ――。

 それから2年後。清義・美鈴・馨の人生が再び交錯する。この中のひとりが命を落とし、ひとりはその殺人犯として逮捕され、そしてもうひとりは弁護士として被疑者を弁護することに──というのが原作・映画両方に共通するあらすじだ。

 ていうか、この3人の誰がどれになったかを言わずに見所を紹介するのめちゃくちゃ難しいんですけど? 映画の公式サイトでははっきり書かれているのでご存じの人も多いと思うが、とりあえずは明かさずに稿を進めることにする。無理だと思ったらその時点であきらめます。

 映画のメインとなる筋は、極めて原作に忠実だった。事件の概要、その動機、展開、そして結末と真相に至るまで原作通り。法律の世界が舞台とあって専門用語や言い回しの難しい箇所も多いのだが、手を抜くことなく、法律というものの持つ面白さが原作通りにきちんと描かれていたことにも好感を持った。では原作との違いはなかったのか? いや、あるんですよこれが。


イラスト・タテノカズヒロ

■原作と映画、ここが違う!

 確かにメインの筋は原作も映画も同じなのだが、原作にはその筋にくわえて、さまざまな枝葉のエピソードがあった。映画ではそれがごっそりカットされているのだ。確かになくても話は通じるんだが、その枝葉部分がそれぞれミステリ仕立てになっていて面白いのよ。

 たとえば墓荒らしの事件。弁護士になった清義(あっ、書いちゃった。いやいや、弁護士になったからといって死なないとも殺さないとも書いてないのでセーフ)が担当した事件で、墓荒らしで捕まった犯人が清義にある頼み事をするくだりがある。映画ではまるっとカットされていたが、この部分だけでも上質な短編ミステリのような読みごたえがあるのだ。しかも原作では、この一件が清義にヒントを与えるという構成になっている。

 また、原作では清義の弁護士事務所には若い女性の事務員がいる。映画ではこの事務員の存在も、彼女と清義の出会いもばっさりカットされていたが、これまた原作ではけっこうなキーポイントなのだ。墓荒らし同様、ふたりの出会いが物語全体への大事な布石になっているのである。しかもサクというこの女性事務員がとてもいい味を出していて、どちらかといえばダークな雰囲気で進む物語にほっと息を抜く役割を担っている。

 そして無辜ゲーム。映画では暗い洞窟の中に蝋燭を持って集まり、訴えた人物がやたらと感情的になって吠えまくるという、これ裁判じゃなくて呪いの儀式ですよね?という雰囲気だったが、原作では法廷を模した教室で行われる。しかもルールが厳密に決められており、証人はYES・NOでしか答えられないため、尋問のテクニックが問われるのだ。原作では無辜ゲームは3度開催され、そのどれもがとてもゲーム性の高い知的パズルになっている。

 つまり原作では本筋の他にタイプの異なるプチミステリが複数あり、それが本筋を補強するという構成になっているのである。ミステリ濃度は原作の方がかなり高いので、謎解きが好きな人は原作を読むべし。のみならず、それらのプチミステリを通して清義のキャラクターがより明確に浮かび上がるので、れんれんファンの人にも原作はお薦めだ。

■杉咲花の圧巻の芝居と、れんれんの受け身の演技に注目

 その他にも、実は大きな違いがあった。杉咲花さん演じる美鈴のキャラクターだ。序盤は原作と大きなイメージの違いはなかったけれど、ラスト間際、弁護士の清義と拘置所で対面する(ああっ、書いちゃった! いや、拘置所にいても被疑者とは限らないのでセーフ)場面の演技は原作とかなり違っていた。

 原作でもそれなりに美鈴は感情を露わにするのだけれど、小説は清義の視点なので清義から見た範囲の美鈴しか描かれない。そこに清義の性格もあいまって、どちらかといえば淡々と進んでいく。それは仕方ないのだ。だって清義が淡々としているのは彼が既にある決意を固めているという、彼の置かれた状況を表しているのだから。

 けれど映画はそれを俯瞰で見られるのがいいところ。杉咲さんの、読者の胸を直接つかんで揺さぶるような圧巻の感情表現は、原作と展開は同じなのに大きく異なる印象を残した。清義が淡々としている分、原作では「すべてが腑に落ちる鮮やかな謎解き場面」だったはずのシーンが、映画では「とてつもない感情が迸る場面」になっているのだ。映画を見てからもう一度原作の当該場面を読むと、もう杉咲花さんの芝居が浮かんできてタマランぞ。てか清義、よくあの状況で部屋を出ていけたな!

 一方、れんれんの演技で最も印象に残ったのは、馨の遺族(あああっ、書いちゃった! ……もういいや)のもとを訪れ、ある事実を知る場面。原作では「僕の頭の中で、全てが繋がった」とあるだけで感情の描写はない。その後、事務員のサクとの会話で彼の受けた衝撃の理由と彼の思いが語られるのだけれど、映画にはサクがいない以上、れんれんの表情にすべてかかってくるのだ。思いがけない事実を突きつけられ、それが何を意味するかを理解した瞬間のれんれんの表情よ! いやあ、あの場面は見応えあった。

 つまりは「理の原作、情の映画」という違いになっているのである。原作で清義は、論理より感情が優先される現実に腹を立て、感情の入り込む余地のない法学に魅力を感じたと語っている。その言葉通り、原作は一貫して理性的に進む。法廷シーンも同様だ。原作は映画よりも証人尋問の場面が長く、駆け引きも細かく描写される。一方、映画で描かれた陪審員や傍聴席の激しい動揺は原作には出てこない。

 これは小説と映画が互いを補完し合う、とてもいいメディアミックスなのではないだろうか。緻密な伏線と細部まで練られた構成の妙、複数のタイプの異なる謎解きなどをたっぷり味わいたいなら小説で。この事態が3人にどんな影響を与え、そこにどんなドラマが生まれたのかを体感したいなら映画で。そして両方を体験すれば、頭と心の両方が満足すること間違いなしなのである。

大矢博子
書評家。著書に「読み出したら止まらない!女子ミステリーマストリード100」など。小学生でフォーリーブスにハマったのを機に、ジャニーズを見つめ続けて40年。現在は嵐のニノ担。

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