南沢奈央の読書日記
2019/07/12

まだ見ぬ色を探しに

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撮影:南沢奈央

 わたしは学校の行事で、演劇の発表会が何より嫌だった。
 中学の文化祭では率先して、小道具係を選んだ。人前に出るのが苦手だという性格は大きな理由だけれど、そもそも、どうして学校で演劇をやらなければならないのだろう、と思っていた。授業の一環で練習するわけでも、演劇に精通している先生がいるわけでもなし、生徒たちが独学、というか自己流で演じる。
 当時見つけた、やる意義としては、クラスの団結を深めるため、親の前で晴れ舞台を見せるため……。ただ、それだけではわたしのやる気には火はつかなかった。
 そういえば幼稚園のときには、「エルマーのぼうけん」で“草”役(役といってもほぼ背景)だったっけ……。そんなわたしが今、シェイクスピア「ハムレット」のオフィーリア役と向き合っているというのだから、人生どう転がるかまったく分からない。

 シェイクスピアが代表するように、演劇と言えば英国だ。
 わたしがこれまで出演した舞台の演出家の方でも、英国で演劇を学んでこられたという方が多く、英国の演劇の話はよく耳にする。また、海外の演出家とは2度ご一緒したことがあるのだが、お2人とも英国の方だった。
 英国とは何かと縁がある。人生で初めて行った外国も、英国だった。短期留学が目的で、スクールが始まる前に、知り合いが「メリー・ポピンズ」を見に連れて行ってくれた。そこがブロードウェイに並ぶミュージカルの本場、ロンドンのウェスト・エンドだったことは、去年再訪して知ったのだけど、劇場が立ち並ぶ夜の街の姿は、まるで映画の中のように煌びやかだったのはよく覚えている。

 英国には演劇が根付いている。それは大人に限ったことではない。
 実際、中学校教育では「ドラマ(演劇)」という教科があるという。演劇学校ではないのに、一部では受験科目にもなっている。それどころか、幼児教育でも演劇的な要素を取り入れていて、4歳の就学時までに到達すべき発育目標の一つに「言葉を使って役柄や経験を再現できるようになる」というものがあるらしい。
 このことを、ブレイディみかこさんが中学生の息子さんの日常を綴ったエッセイ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で初めて知り、驚いてしまった。だって、中学校に入学して翌日に、ミュージカルのオーディションがあるってどれだけ特殊……! かといって、国を挙げて俳優を育成しようというわけでもなく、英国の公立中学校にはふつうに「ドラマ(演劇)」という科目があるのだ。授業の目的は「日常的な生活の中での言葉を使った自己表現力、創造性、コミュニケーション力を高めるため」。
 確かに、わたしも女優として役を演じることで、自分の中に感情や表現の引き出しが増えていくのが分かった。どういった表情や仕草、声を使えば、どういう感情が伝わるのか。客観的に演出家や監督が判断してくれて、観客や視聴者が反応してくれる。それを繰り返していくことで、自己表現方法を学んでいく。
 また、台本を読むことを通じて、自分の役も含め登場する人物、つまり他者の気持ちを考える。時に、それを共演者などと共有すべく、言語化しなければならない場面もある。わたしは未だに苦手と感じることがあるのだけど、この作業はコミュニケーション力を高めることに繋がっていると思う。

 英国の幼少期からの教育のおかげかどうかは分からないが、「ぼく」には、自己表現力がしっかりとある。怒っているときは怒りを露わにするし、悲しいときには悲しいと言う。それだけなら「素直だなぁ」で終わるかもかもしれないが、そう感じた“理由”を自分の言葉で説明できるのが凄いんだよなぁ。
 しかも中学生の「ぼく」が学校でぶつかる壁はたくさんあり、ときに高く、あるいはあまりに生々しい。貧困、人種、格差、ジェンダー。我々が外から見ている英国のイメージとだいぶ違う、内側からしかわからない一面が見えてくる。しかもそれらの社会問題が中学生の日常にも剥き出しで転がっているというのだから衝撃だった。
 だけど「ぼく」は、ひとつも受け流さない。少しでも引っかかることがあれば、立ち止まる。言語化する。母親や友人の意見を聞く。最終的には自分なりに解決する。そうして成長していく様子に心揺さぶられ、でも自分はというと、「ぼく」のようなフラットな目線と柔軟性のある価値観を持っていない、と気付かされる。
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」と入学当初にノートに落書きした言葉が、1年半経ち、ブルーが別の色に変化したと言う彼の姿に、わたしはうれしくなり、同時に、勇気をもらう。今なら、何色も混在しているパレットへ果敢に飛び込んでいける、そんな気がする。

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