南沢奈央の読書日記
2022/01/28

漂う

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撮影:南沢奈央

 年末に部屋の掃除をしていたら、一冊のスケッチブックが出てきた。手のひらに収まるほどの小さなものだ。10年以上前だが、イラストを描くことに目覚めた時期があった。気軽に持ち歩いてスケッチの練習をするために買ったのだと記憶している。
 開いてみると、“イラストの描き方”みたいな本を参考にして描いたと思われる、犬のイラストがある。何度も描いて練習していたようで、何匹もの犬が同じ方向に向かって、無表情で走っている。他にも植物や地球のイラストがあった。特に上手いとも下手とも言えない、中途半端なものだった。
 でも5~6枚めくっていくと、イラストより言葉が書かれるようになっている。イラストは添えられている程度で、むしろ言葉がメインになっていた。言葉というのは、詩のように少し長めのものもあれば、格言のように一言のものある。
 その中でこんなものがあった。
〈走り疲れたら、歩いてもいいし、立ち止まってもいい〉
 実はこのスケッチブックを見つけたとき、恥ずかしさのあまりすぐに捨ててしまったから正確ではないのだが、こんなことを書き付けていた。たしか、風にそよぐ花のイラストとともに。
 恥ずかしくて捨てたくらいだから、ここでわざわざ公の場に持ち出さなくてもいいのだけど、永井玲衣さんの『水中の哲学者たち』を読んで、ふと思い出してしまったのだ。
 このようなことは中学生くらいのときから考えていて、何を考えてこの言葉が出てきたのかは思い出せないのだけど、その時の自分にはこれだ、としっくりきたのだ。あの言葉を思った瞬間に見ていた、当時住んでいた埼玉・浦和のマンションの玄関の景色も思い出せる。
 本当に何ともない言葉なのだが、不思議とずっと残っていて時折ふと蘇ってくるタイミングがあった。なにかを頑張っているとき、考えを巡らせているとき、ゴールが見えなくて息切れしてきたときに、思い出しては救われていた。……とはいえ何度も言うが、このエピソード含めて恥ずかしいから、すぐにみなさんには忘れていただきたい。

 本題に入ろう。『水中の哲学者たち』は、哲学研究をし、さまざまな場所で「哲学対話」のファシリテーターもされている著者のエッセイ。“哲学”には興味があったが、高尚なもののような気がしていて手を付けられずにいた。でも書店でたまたま見かけて、ぱらっと「まえがき」だけを読んでみたら、哲学ってめっちゃ周りに転がってるじゃん!と気づいた次第。
「なんで冬にアイスが食べたくなるの」
 こんな些細な問いでも、「偉大」だと著者は言ってくれる。問いをもとに考えはじめ、人々と対話をし、また考える。そこから世界を見ることができる、と。それはもう「哲学をしている」ことになるのだ。
〈「哲学」なんてかっこいい名前なのに、「小学校のときの給食の味噌汁に入っているちょっと煮込まれすぎてどろっとなったわかめ」なんてものが主題になったりもする〉
「哲学対話」というのも高尚でむずかしいもののように思っていた。だが、先ほどの問いのように、「普段当たり前と思っていること」や「取るに足らないとされているもの」を改めて問い直して、「じりじり考えて話してみたり、ひとの考えを聴いてびっくりしたりする」。そのような場なのだそうだ。楽しそうだ。わくわくする。
 わたしは、何かを深く考えることは、苦しいことだと思っていた節がある。深く考えることは「水中に深く潜ること」に例えられると言うが、何か捉えられるはずだと思って潜っていって、でも何もなくて絶望して、もがいて、おぼれる。諦念と孤独を抱えて陸に上がったことが何度あったか。
 でもそうなるのは、一人だったからだと気づく。人と一緒に潜ってみたい、と思う。
 本書を読むという行為を通じて、それが実現できているような気がする。綴られている著者の考えが、問いのようにも感じる。こちらにやさしく投げられていて、自然とゆっくりと潜っている。著者自身も迷ったり、よどんだりしている。そばに潜っている人がいるというだけで、安心する。
 こういう体験が、いつのまにかわたしを救ってくれる。
 あの小さなスケッチブックはもうない。あの言葉も、もしかしたらもう思い出すことはないかもしれない。走り疲れたときこそ、この本に戻ってくればいい。
 潜る気力がなければ、ただ水に身を任せて漂えばいい。それだけでもどこかへ行けるかもしれないのだから。

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