南沢奈央の読書日記
2018/06/15

梅雨のおまじない

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撮影:南沢奈央

 舞台稽古の疲れと洗濯物が溜まっていく。今年の梅雨の湿気は、わたしを悩ませる。
 台詞を覚えなくては。役のことを理解しなくては。何を伝えたいのか明確にせねば。洗濯をせねば……明日、稽古場に行けない……。
 稽古休みの日、頭の中はぐるぐると回り、全身は重い空気を纏っていた。ほとんど救いを求めるように、わたしは西加奈子さんの個展へ向かった。

 『おまじない』の短編8篇、それぞれにまつわる原画が並んでいた。
 単行本に印刷された絵を見たときは、優しく、柔らかい印象だった。だが、実物を目の前にして、わたしは圧倒されていた。とてもあたたかいのに、このうえなく力強い。西さんの底知れぬエネルギーをひしひしと感じた。段ボール上のクレヨンの強さ。物の捉え方。西さんはどこまでも、描く対象と真摯に向き合っている。
 炎、犬、カタツムリ、ウィスキー、オーロラ、ドブロブニクという文字、猫、煙突。
 描いているものはシンプルでリアルなのだけど、一方で、その背景や取り巻く空気はとても複雑で、さまざまな色が混ざっている。
 小説を読んだ時に感じたこと、そのものだった。
 喜怒哀楽。離れたところから見ると、どれかに分類することはできるかもしれない。だけどクローズアップすると、さまざまな感情がごちゃまぜになっていて、実際には分類できないものなのだ。だけど他人に説明する言葉を持っていなくて、誰にも理解してもらえないと半分諦めて、抱え続けて生きている。
 それに静かに気付いて、救いの手を差し伸べてくれるのが、『おまじない』だ。

 読みたい。読まなきゃ。噴き出していた汗をそのままに、わたしはすぐに家に帰り、本を手に取った。今度はわたしの手の上に、小さく絵が並んでいる。もう開く場所は決まっていた。強烈に惹きつけられたふたつの絵に、触れる。
 穏やかさの周りに、何とも言えない感情が渦巻いている猫、「マタニティ」。妊娠が発覚し、幸せを素直に受け止められないでいる女性が主人公だ。嬉しさがあれば不安も一緒に湧き出てしまうようなネガティブを、努力で埋めてきた彼女にとって、<弱いことってそんないけないんですか?>は一番必要な言葉だったのだと思う。自分の弱さを認めることは、結果、人を強くする。わたしの頭のぐるぐるはストップしていた。
 すると頭の中に、炎の絵が鮮明に浮かぶ。「燃やす」、その中に入ってみたいと思うような炎。火傷することはなく、きっと優しく温めてくれるんだろうなぁと感じさせる炎。主人公の小学生の女の子は、母親から言われたある言葉が胸につかえ続けている。自分を苦しめる言葉をどうにかしたくて、学校の焼却炉でいつも色々なものを燃やしている用務員のおじさんに、言葉を燃やしたいとお願いする。自分が悪いからだ、ぜんぶ自分のせいだ。だけど自分だってしたいことはある。本心が溢れ出てくる。おじさんは言葉を燃やせないことを申し訳さそうに告げながら、これだけは強く断言する。
 <あなたは悪くないんです。>
 押し殺してきた思いを外に出してみたら、自分を肯定してくれる人がいた。彼女が言われた言葉は消せないけど、そのものの温度は変わったはずだ。溢れ出た涙の量以上に、わたしの身体は軽くなった。

 おとなになったって、おまじないが必要な時はある。
 鼻をかんだティッシュを捨て、台本と洗濯物と向き合う。ふと、てるてる坊主でも作ってみようかしら、なんて思って、ティッシュを見やる。明日の稽古と天気が、少し、楽しみになっている。

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