南沢奈央の読書日記
2017/09/01

あの日言葉が生き始めたの

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撮影:南沢奈央

 仕事が忙しくなるとなかなか本が読めなくてねー、と友人に相談すると、詩なら20秒もあればひとつ読めちゃうよ、とプレゼントしてくれたのが、エミリー・ディキンスン詩集「わたしは名前がない。あなたはだれ?」。
 詩といえば、茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」が大好きで繰り返し読んでいるが、それ以外、詩の世界は未開拓である。そんなわたしにとって、“150年以上前の外国の詩”というのはハードルが高い。だけど、本をくれた友人の感性には信頼を置いている。未踏の世界に入ってみることにした。
 確かに、数行ほどのひとつの詩に目を通すのに20秒あれば十分だった。そう、目を通すだけならば。表現の意味を想像して、詩自体を理解するのには、1日中向き合っても足りないくらいの奥行と広がりである。詩を読むってこういうことだった、と久々に脳が痺れた。

 わたしは今まで感じたことのない感覚を味わっていた。穏やかなようで激しく、孤独のようで存在を感じる。相反するふたつが同時に見えてくるのだ。日常を切り取っているのに、どこかファンタジーのようだ。
 また、ところどころ出てくる曖昧な表現「あのとき」「あの日」「あのひと」「あの女」「あのこと」。読者それぞれの想像に委ねる感じではなく、何か具体的なものを示しているようだった。エミリーは当時、一体どんなものを見ていたのか。
 本の帯に“世に知られずひっそりと生きて、嫁ぐことなく、55歳で静かに死んだエミリー”と書かれている。気になり、著者について調べようとしたが、読む前に知ってしまうと、勝手に結び付けて詩を解釈してしまうだろうと思って、何も情報もないまま全て読んだ。だが、やはり気になる。どんな人生の中で、こんなに壮大でエネルギーのある詩が生まれたのだろう。

 もう一つ、気になる情報が帯にあったのを思い出した。“待望の映画化!7月29日よりロードショー”。すぐさま観に行った。公開されて一か月以上経っているのにも関わらず、客席の半分以上は埋まっていた。映画『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』は、彼女の生涯を、詩を織り交ぜながら描いた伝記的作品だ。1830年にアメリカ東部の上流階級で生まれ、育つ。だが芯の強さゆえに孤立してしまい、やがて家の敷地の外へ出ることもなくなる。それは愛する父親の死によってさらに加速する。常に白いドレスと、誰も介入できないような神聖さを身に纏って、病に蝕まれながらも頑なに生きていく。
 映画を通して分かったのは、エミリーは自分自身に正直な女性だったのだということ。ただ、あまりに正直であり過ぎた。だから周りと衝突し、相手を容赦なく傷つけてしまうのである。家族とともに家で暮らしながらもどんどんと孤立していく彼女の姿を見ていて、胸が締め付けられた。
 苦しい状況の中で、「詩は日課なの」というエミリーの台詞が印象的だった。その通りに、毎日鉛筆を握って、机に向かい、力強く言葉を紡いでいった。生前それらの詩はわずかしか発表されず、評価もされず、無名だった。だが、エミリーが亡くなってから1800篇近くに及ぶ詩が発見され、出版され、注目を浴びることになっていく。

 本書にはそのうち73篇が収録されている。もう一度、著者の半生を浮かべながら読んだ。
 単に心清らかに育った女性なのではなく、苦悩も試練も受け、孤独の中で心を清らかに保とうと努めた女性だからこその表現なのだと、腑に落ちた。
 そして詩の情景にはより豊かに色が付いた。穏やかな幸せの喜びを感じているとき、自分の信念を受け入れてもらえず怒りとともに訴えているとき、人が亡くなって哀しみに暮れているとき、外の世界を楽しそうに観察しているとき。生きている中で沸き起こるあらゆる鋭い感情が、柔らかな表現で読む者の身体に染み渡ってくる。
 
883(P100)
 詩人はランプに火を灯すだけ/自らは 消えて行く
ランプの芯に もし/いのちの火を/太陽のように宿せたなら
 各時代は それぞれひとつのレンズ/それぞれの時代の周辺領土に
 (光のいのちの)/種子撒きをします

 エミリーの魂が今、大きな花を咲かせている。

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