南沢奈央の読書日記
2020/07/03

美味しい牛乳

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撮影:南沢奈央

 数か月ぶりに本屋さんに行った。
 ソーシャルディスタンスを保つために、床には足のマークが描かれたステッカーが貼られていたが、本棚に並ぶ本を見て進んでいると、いつの間にか人と近距離になってしまっている。立ち読みなんぞしていたら他の人が近づけなくなってしまうだろうし、あれこれ手に取って吟味するのもはばかられる。
 なかなか買う本を決められずにコミックコーナーに来たとき、牛乳瓶が目に入った。
 牛乳色の表紙に牛乳瓶がどーん。
 INAさんの『牛乳配達DIARY』。2017年夏から翌年秋までの経験を記録したエッセイコミックだ。

「漫画みたいなことがあって面白かったので漫画にしました」と帯にある。だが描き始めた2017年8月に描かれるのは、営業に回っていた先で出会ったおばあさんに「おたく 商売むいてないと思うよ」と言われ、頑張ってと渡された栄養ドリンクの賞味期限が2年以上切れていたというエピソード。
 子どもたちが駆け回って遊んでいる公園の中、うなだれているイナさんは、当時「面白い」と思えていたのだろうか……。なんだか、全体に切なさが見え隠れするが、でも、独特の空気感を持つ魅力ある絵に、あっという間に引き込まれていった。それと、わたしがこんなことを言うのもおこがましいが、確実に、漫画の構成や絵のタッチが上達していくのも一冊を通して見られるのが面白かった。
 牛乳配達をしながらリアルタイムで描き溜められたものだからこそ、一見同じようで変化していく日々が見える。
 季節の移り変わりも感じ取れる。配達をしながらよく出会う花の香りが沈丁花だと分かった瞬間、沈丁花を見つけると親しみを覚え、いろんなところで目につくようになる。最後には、香りだけで沈丁花を見つけてしまうくらい、春を感じているイナさんを見ると、こちらも気持ちが華やぐ。夏には、蝉の声をBGMに配達だ。他には、虫捕りあみを持って駆け回る子ども、魚を見るために川の中を覗き込む子どもを見かけて、夏に気づく。子どもに誘われて、スケボーをやってみせたりする姿は微笑ましい。
 だが人との出会いは、良いことばかりではない。営業で一軒一軒家を廻って、サンプルを一生懸命配っても、蔑ろにされてしまうのがほとんどだ。「帰って!」と怒鳴られたり、インターホン越しに「どうでもいい奴来たけど」という声が聞こえてしまったり。
 契約が一件も取れなくて上司からプレッシャーを掛けられていたとき、新規の契約が決まりそうだったお宅の玄関前で、サンプルのヨーグルトの瓶を落として割ってしまい、虚しさがこみ上げて崩れ落ちる場面は、泣きそうになってしまった。何をやってもうまくいかないときって、ある。一生懸命も空回りになる。人に迷惑も掛ける。つい感情移入してしまった。
 ときどき、ふと寂しそうな横顔をする。心配になってしまう。キャップ帽で陰になって見えなくなっている目はどんな目をしているのか。覗き込みたくなる。
 でもその目は、悔しいことや辛いことがあろうとも、おじいさんおばあさん、お客さん、子どもや配達員仲間、動物や植物や空に向けられている。そうしている限りは、乗り越えられるのだろうなと思う。
 そして2018年11月、イナさんはまた新たな道へ目を向ける。これまで居た場所を離れ走り出すラストは、やさしい甘みとコクがありながらも、とても爽やかだった。美味しい牛乳、いただきました。

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