南沢奈央の読書日記
2021/04/30

下を向いて歩こう

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撮影:南沢奈央

 数日前、道端で缶バッジを拾った。
 目についたときは、ワッペンだと思った。円形で、天空の城ラピュタのシータの姿が刺繍されていた。こういうのを最近母に作ってもらったバッグに付けたら綺麗だろうなぁと手に取ると硬くて、裏返すと缶バッジだということに気づいた。だが、ピンがない。きっとカバンとかに付けていたけど、何かの拍子で外れて落ちてしまったのだろう。
 ピンしか付いていないカバンに気づいたときの、物足りなさとおどろき。ピンだけ残ったカバンをしばらく持って歩いてしまった、自分の滑稽さ。どこで落としたか見当もつかずに湧き上がる、寂しさ、諦念……。持ち主の気持ちを想像するわたしの手の中に収まったシータの横顔も、少し物悲しそうに見えた。
 落とし物を見かけると、切なくなる。
 特に、靴。道端に転がっている片方だけの靴。時に、どうしてそうなったのか、道路の交差点の真ん中で車にはね飛ばされたり、踏み潰されているようなこともある。とても切ない光景だ。
 落ちている靴を見て切なくなるのは、わたしが靴をなくしたことがあるからだろうか。中学入学直前に、初めて買ってもらった革のローファーを、買ってもらったその日に、箱から出すこともないまま、なくしてしまったのだ。家へ帰る電車で棚の上に乗せて、そのまま忘れてきてしまったのだった。結局落とし物として届かず、もう一度買ってもらったが、親に申し訳なくて、安いものを選んだ記憶がある。

 通りすがりのわたしたちにしてみれば、ただの落とし物かもしれないけれど、想像してみればそこには、さまざまな物語が広がる。
 そんな風に、路上で出会った落とし物から妄想を広げたエッセイが一冊の本になっている。せきしろさんの『その落とし物は誰かの形見かもしれない』。
 そういえば最近、落とし物にまつわる良本によく出会う。フランスの小説『赤いモレスキンの女』(アントワーヌ・ローラン著)は、ハンドバッグを拾ったところから始まる大人の恋の物語だった。とてもロマンチックで、ハンドバッグをなくす勇気はないけれど、誰かとこんな出会いをしてみたいと思ったほどだ。
 また今回、せきしろさんの妄想を読んで、落とし物を見つけて切なくなるだけじゃなくて、どうせなら面白い想像、楽しい想像、ロマンチックな想像を広げたいと思った。そしてそれがもしかしたら、日々の道の歩き方をも変えるかもしれない。
 たとえばせきしろさんは、物から持ち主を連想する。これを落としたのは誰か、と。
 アロンアルファだったら桂文枝師匠、サングラスだったら高橋尚子さん、セロテープだったら清水アキラさん、りんごだったらキティちゃん。これらがどんな風に結びつくかは、ぜひとも想像していただきつつ、気になる方は本書を開いてみてほしい。
 食べ物がこんなに落ちているかというのも笑える。カンロ飴、おにぎり、りんご、レモン、バナナ、水菜、ソフトクリーム――。
「落とし物はいつだって無言であるから、見つけた者が想像するしかない」と自由に広げていく想像が、落とし物から醸し出されている切なさを払拭してくれている気がする。落とし物として落とされたままだったら、もしかしたら処分を待つだけだったかもしれない落とし物も、気づいてもらい想像してもらうことで良い人生(物生)を終えられるのではないだろうか……と最後には落とし物側の気持ちになっている。
 ついスマホばかりを見て歩いてしまう昨今。どうせうつむくなら、画面の外に想像力を向けて歩くと世界が広がるかも、と落とし物が教えてくれた。

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