南沢奈央の読書日記
2024/01/26

罪深きつまみ食い

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撮影:南沢奈央

 先日、酔いにまかせて、わたしらしからぬことをしてしまった。
 知人に教えてもらった近所のお店にふらっと行ったときのこと。そこはカウンターメインで、小さなテーブルが一つあるだけのこじんまりとしたお店。一人でもとても居心地がいい。わたしはカウンターの端の席で飲んでいた。周りの様子を見ると、カウンターには同じように一人客が多く、スマホを見たり、食事に集中したり、ときどき店主の方と話したりして楽しんでいる。
「駅前の雑貨屋さんが月末に閉店するって知ってました?」「うわさで聞きました。文房具とか日用品も売ってたからけっこう使ってたんですけどねぇ、残念」「次、ジムになるらしいですよ」「えー、並びにジムあるのに」……。
 え! 閉店するなんて知らなかった! しかも雑貨屋からのジム?!
 ご近所トークが繰り広げられていてつい会話に入りそうになるが、わたしはこのお店に初めてきた新参者。調子に乗ってはいけない。衝動をレモンサワーで飲み込む。
 飲み込んだはずだったが、しばらくして店主から「ご近所ですか?」と声をかけられて、「あ、はい! 駅前の雑貨屋さん閉店するなんて、びっくりです!」と、答えてしまった。やらかした、と思った。「さっきの会話を盗み聞きしていました!」と自白したようなものだ。だが、それが会話の種になって他の近所のお店の話に展開していったから一安心。お酒のほうは、白ワインに展開した。
 徐々に賑わってきて、店主の方も忙しくなってきて悠長に会話してもいられなくなり、わたしはまた一人黙々と料理とお酒を楽しむ。小説を持ってきていたが、一度店主と会話したことでオープンマインドになってしまったから読書を始める気分にもならず。
 するとずっと空いていた隣の席に、女性が一人入ってきた。隣だから顔を見ることができないが、声を聞く限りは同じくらいの年頃。慣れた様子で注文し、スマホをテーブルに置いて何かを見ながら飲み始めた。
 決して覗くつもりはなかった。だが、目に入ってしまった。あのわたしも大好きなアプリ。そう、登山アプリ「YAMAP」である。全国各地の登山情報を網羅していて、ルートやユーザーの登山記録を見ることができる。わたしも登山計画を立てるときには必ず使うし、誰かの登山記録を見て妄想登山することも。
 飲みながらYAMAPを見ているということは、相当な山好きだ。冬山も行くのだろうか。これまでどんな山に登ってきたのだろう――。胸がどきどきする。声をかけたい。だが、それこそスマホを覗いていると自白するようなものだ。ぐっと堪えて、赤ワインを注文する。
 閉店時間も近づいてきて、店内にはわたしを含めカウンターに3人だけになっていた。YAMAPさんと、店主とよくお話されていた50代くらいの男性だ。すると男性が、こちらが女友達で飲んでいると勘違いしたようで、「二人でよくいらっしゃるんですか?」と声を掛けてきた。「あ、いや……初めましてです」と、ここでようやく顔を見合わせ、笑い合った。
 笑顔が素敵でとても気さくな方だった。少しずつ話を聞いていくと、同世代でしかもご近所。詳しくは話さなかったが、仕事もどうやら近い業種のようで盛り上がる。そこでつい、気が大きくなってしまった。
「YAMAP見てましたよね、山お好きなんですか?」。言わないように言わないようにと心に留めてきたことを。それはつまり、「スマホを盗み見していました!」と言っているようなものではないか……。いや、そんなつもりはまったくない。「ちょっとチラッと見えてしまったんですけど」程度のものだ。弁明すればいいものを、「わたしも山好きなんです!」とさらに畳みかけてしまった。
 その後有難いことにしばし山の話題で意気投合し、途中まで一緒に歩いて帰り、「今度一緒に登山行きましょうね!」と言い合って別れた。お店で、知らない人と会話することはままある。その距離の詰め方がなかなかにわたしらしからぬ、盗み聞き、覗き見を利用したものになってしまったのだった。

 節度は守らねば、と日々反省は大きくなるばかりだったが、そんなときに出会ったのだ。〈隣の皿からつまみ食いをするように、ちょっと覗き見したり、思わず盗み聞きしたりするのがどうにもやめられない〉という読者を対象にした本に。それが、岡田育さんの『天国飯と地獄耳』だ。〈飲食店で食事中に隣席の様子を窺い、小耳に挟んだ話を拾っていった〉という、妄想アリ・捏造ナシの特異なエッセイとなっている。
 居合わせるのは、鮨屋で昼酒を楽しみながら馬刺について熱弁する熟年女性、深夜の吉そばで睡魔と闘う店員と客、両国国技館の桝席の慣れた家族連れ、飛行機のビジネスクラスで世話を焼かれるイケメン男性、ニューヨークのタパス料理店で無知をさらけ出す美人女性など、「いるいる」から「そんな人いるの?!」まで、個性豊かな人物たちだ。
「事実は小説よりも奇なり」とはまさにそうで、それだけでも十分に面白いが、事実から広がる著者のプロファイリングがまた読み応えあり。そのプロファイリングは、分析であり、妄想であり、自分自身との対話ともなる。漏れ聞こえる会話をきっかけに、社会との関わり方について考える。はて奥深し盗み聞き。
 また著者は、2015年からニューヨークに住んでいて、この本でいうと中盤からニューヨークの生活へと移る。日本とニューヨークでの飲食店の様相もだいぶ異なり、文化の違いなども垣間見ることができて楽しい。当たり前のように多言語が飛び交い、盗み聞きもまずどこの言語かを聞き分けるのに一苦労だというが、それでもさまざまなエピソードが綴られる。
 カフェでの互助システムは知らなかった。作業などのために一人でカフェに来ているとき、トイレに行く間は、隣の席の人に声を掛けて荷物の見張りをお願いするという。声を掛けられたら責任感が生まれて、なんだかちょっと嬉しいような気もする。普段わたしは声を掛けるまではしないが、勝手に周りに「見張っていてくださいね」と心の中でお願いして席を立っている。信頼しすぎだったかもしれない、とはたと思うのだった。

 多種多様な覗き見、盗み聞きを一緒に楽しみ、共犯者になったような気分を味わいながらも、自分と向き合うきっかけにもなる。そして最後の最後に、大事なことに気づかされる。
〈隣席を覗くとき、隣席もまた等しくこちらを覗いているのだ。いついかなるときも、ただの観察者として高みの見物に徹することなどできない〉。
 そうだ、わたしもあの日、打ち解けたあとにあのYAMAPさんから言われたのだ。「さっきのラム美味しいですよね」「けっこうお酒飲まれるんですね」「本お好きなんですか?」。わたしも見られていた、聞かれていた。お互い様だった。

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