南沢奈央の読書日記
2023/05/19

ワタシはダレ

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撮影:南沢奈央

 わたしは今、火星人のことで頭がいっぱいだ。
 来週末から舞台の本番が始まるというのに、困った。舞台の内容は火星人とはまったく関係がない。初めての関西弁での芝居である上に、3役演じる。舞台のことを考えたい。
 いや、舞台のことを考えてしまうのだ。ぜひともこの火星人の奇妙な物語を舞台化してほしい、と考えてしまう(もちろん今稽古中の作品を第一に取り組んでいるのだが)。
 そしてその舞台化の熱は、“してほしい”という他人任せのものではなく、舞台化“できないものか”と思案してしまうほどに高まっている。
 これほどまでにわたしを興奮させているのは、ある一冊の本。その出会いも偶然だった。
 先日知人と、今日何をして過ごしていたかという話題になった。すると知人は、わたしと会う直前に本屋さんに寄ってきたと言う。それを聞いてしまったら、どんな本を選んだのか見せてもらわずにはいられない。
 坂本龍一の自伝、三島由紀夫に太宰治……。そして、「これでこの作家の作品、コンプリートなんだ」と見せてくれたのが、今わたしの頭を支配している張本人、安部公房の『人間そっくり』だった。
 安部公房。教科書で触れたかも?程度の知識しかなく、ちゃんと読んだことがなかった。だがちょうど最近、わたしも安部公房を本屋さんで手に取っていたのだった。過去の芥川賞受賞作を掘ってみようと思っていたときに、『壁』を見つけていたのだ。
 その時は結局買わなかったのだが、安部公房作品に近づいたばかりだったこの時、こうしてまた違う場所で出会うことになるとは。運命をも感じ、すぐに『人間そっくり』を買いに走った。知人とは真逆で、わたしにとっては、「初めまして安部公房」だ。

〈その奇妙な男は、ある晴れた五月の昼さがり、ミシンのセールスマンかなんぞのような、のどかな足取であらわれた。〉
 まさに晴れた五月の昼さがりに本書を開いたわたしは、この冒頭の一文ですでに奇妙な錯覚に陥った。その奇妙な男が、目の前に現れたような感覚。警戒はしながらも男に興味を抱いてしまう……。
 何者だろうかと思っているところに、一本の電話が来る。それは男の妻だという女性からで、夫は《こんにちは火星人》の大ファンだと言う。《こんにちは火星人》とは、主人公が脚本構成を担当しているラジオ番組だ。そして、夫は分裂症で自分を火星人だと思い込んでいる、と。ただ、無下にされると狂暴になってしまうから話だけ聞いてやってください、30分以内に必ず迎えに行きます――。
〈では、いさぎよく、わが火星人の幽霊に《こんにちは》をするとしようか。〉
 いかにも人の好さそうな微笑で部屋へ入ってきた男。なるほど話を聞いてみると、自分は火星人であると、はにかむように話し始める。
 話を合わせて信じているように見せる主人公。信じられていないと気づき、火星人であることを証明しようとする男。
 事実なのか、妄想なのか。正気なのか、狂気なのか。火星人そっくりの人間なのか、人間そっくりの火星人なのか。境目があやふやになっていき、やがて自分自身が何者であるかも分からなくなってくる。
 二人の本心の探り合いと駆け引きが、ひたすらに密室で繰り広げられる。この緊迫した心理戦、もはや読んでいるというより、“目撃”している感覚に近い。巻末の解説文にもあったが、「ほとんどが会話と、ト書きに近い状況説明しかな」く、まさしく演劇的なのである。人物とともにこちらまで激しく揺さぶられ、手に汗を握る。演劇を観ているような、類まれな読書感覚を味わえる一冊だった。
 
 さて、今もなお『人間そっくり』の余韻を引きずって、火星人が気になる地球人であるわたしは関東人だが、関西人を演じるのだ。わたしは一体、誰なのだろう……。

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