南沢奈央の読書日記
2017/07/21

「信じる」と「知る」の間で

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撮影:南沢奈央

 どうやらわたしは舞台の仕事の間は小説が読めなくなるようである。この読書日記を見てくださっている方はお気づきかもしれないが、6月頭から小説を読んでいない。読もうとしたことはあったけれど、物語に没頭する体力と余裕が無くて、“また集中できるときに”と泣く泣く保留することになった本が数冊、勉強机の上に積んである。
 その中で舞台の公演が終わったら一発目に読むのはこれだと決めていた。今村夏子さんの『星の子』だ。表紙と帯だけを眺め、開くことすら我慢していた。前作の『あひる』を読んだ際に、ページをめくる手が止まらなくなったからだ。今回もきっとそうだろうと予想して一回も開かず、だけど毎日目に入るところに置いて、すでに読んだ周りの評判も頭に入れて、『星の子』の存在感と期待感を膨らませていった。
 そして、千穐楽の翌日に早速読み始め、一気に読み終えた。かなり上がっていたハードルもまるでなかったかのように超えてしまう、おもしろさだった。今村夏子さんの小説世界に一度入ると、抜け出せなくなる空気感があるのだ。目を離してはいけないような。

 主人公ちひろは、生まれた直後から、全身の湿疹に悩まされていた病弱な女の子だった。どんな治療をしても一向に良くならなかったが、ある日両親が知人から勧められた「金星のめぐみ」という水を使ってみると、なんと完治した。これを機に、両親が怪しい宗教にのめり込んでいく―。
 洗脳された両親から洗脳されて育った娘。傍から見ると、可哀想で不幸な一家のように思える。けど内にいる両親はもちろん幸せで、ちひろもたくさんの愛をもらっていて、決して不幸とは思っていない。一方で、幸せとも思っていないところが、ちひろという人間の凄いところだ。水のお陰で自分の湿疹が治ったという体験をしているし、子どもの頃から宗教の中で当然のように育ってきたわけだが、完全なものではないとも分かっている。
 水によって改善される症状の中に「薄毛」もあるというのに、父親の薄毛にはまったく効果があらわれないことに気が付いている。また、あやしい宗教から目を覚まさせるために親戚が水のボトルの中身を公園の水道水に入れ替えたのに、両親はそれに気づかずに、「水のおかげで調子がいい」と嬉しそうに話している姿を見ている。不思議に思いながらも、ちひろは中学三年生になっても「金星のめぐみ」を飲み続けている。
 宗教という深いテーマに対して、主人公がどちらにも偏らずに中立で描かれている。だからこそ、“信じる”とはどういうことだろう、“幸せ”とは何だろうと考えさせられる。

 ちひろが好意を寄せていた先生に家の近くまで送ってもらった時に、「不審者が二匹いる」と言われて見た先には、お互いに頭の上のタオルに水をチョロチョロかけ合う両親がいた。その時は先生に言われた通りにダッシュをして、けど真っすぐに家には帰れなかった。帰ってからは両親に、顔色が悪いからと頭にタオルを乗せられ、水をかけられた。布団の中でひとり泣いた。翌日は学校に行くと、昨日の不審者は自分の親だと告白する。そしてちひろは親に言われるままに湿ったタオルを頭に乗せ続けた。
 両親のことを恥ずかしく思って抵抗するけれど、それが自分の親であることは紛れもない事実だ。だから隠すこともしないし、親が信じるものに従う。ちひろの信じているものは宗教ではなく“親”なのかもしれない。
 ラストのシーンは印象的である。真冬の夜に、親子三人で「宇宙のエネルギーを取り込もう」と流れ星を見ようと外へ出る。なかなか同時に同じ流れ星を見ることは叶わない。だけどどうしても一緒に見ようと頑なに粘る父と母、そして違和感を覚えながらも見ようと努める娘。美しいシーンの裏に流れる不気味さが、わたしの心をざわつかせている。
 自分が見えるものがすべて、他のみんなにも見えると思い込んではいけないような気がしてくる。

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