南沢奈央の読書日記
2017/08/18

人間として生きるために

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撮影:南沢奈央

 この本を読むには、わたしはあまりに無知すぎた。ハリエット・アン・ジェイコブスという著者に関しても、『ある奴隷少女に起こった出来事』の中身に関しても、何も知らず、翻訳物の小説だと思い込み、何気なく読み始めた。すると、そんなわたしを見透かしたかのような一行から文章は始まっていた。
 「読者よ、わたしが語るこの物語は小説(フィクション)ではないことを、はっきりと言明いたします。」
 確かに読み進めていくと、この一行がなかったら小説と思ってしまうくらいの壮絶な内容だった。実際に出版された約150年前の当時、「実話の体裁をとる作り話(フィクション)」だと誤認され、一度は世の中から忘れ去られていたという。それが時を経て、実話と証明され、蘇った。本書は、奴隷として生まれ育った少女の真実(ノンフィクション)の物語である。
 ……と意気込んで、本書を勧めようと書き始めたのだけれど、どう表現したらいいか!頭を抱えている。先日、まだ読んでいる途中に、友人から「その本おもしろい?」と聞かれて、「うん」と言えなかった。軽々しく頷けるようなものではないのだ。とても素晴らしい本に出会えたと思っているし、ぜひ読んでもらいたいのだが、何と言葉にしたらいいか分からず、「とても考えさせられる」とだけ答えた。そこで「どんなことを?」と聞かれたら、またそれもうまく答えられなかっただろう。ただ、感動とも共感とも、違った。心が、震えていた。

 読了して、ふと考えたことは次のようなことだった。
 “人間にとって、一番の苦痛と、一番の希望は何だろう”
 特に、“苦痛”についてだ。奴隷の人たちの生活は、99%が苦痛で満ちている。むしろ1%の希望なんていうのも、持たない方が幸せと感じていたかもしれない。
 主人公リンダ(著者)は、12歳の時に医者の家庭の奴隷となる。旦那さんからは性的虐待を受け、拒否すると脅迫され、暴力を振るわれた。奥さんはそのことで嫉妬し、怒り狂い、リンダを罵った。そんな境遇でも耐え、何とか逃亡しても、まだ執拗に彼らが追いかけてくる。それによって22歳から29歳までの7年間を、立ち上がることもできないくらいの狭い屋根裏で身を潜めて過ごすことになる。外との接触もほぼない状態で、身も心も蝕まれていく。奴隷は、奴隷所有者によって保有され、征服され、すべてのものを奪われるのだ。
 それでも、リンダは奴隷所有者の元で暮らしているときが一番辛そうだった。人間として扱われず、自尊心や意思を持つことも許されず、身体も魂も支配されていた。わたしはこれほど真実味を帯びた「いっそ死んだほうがいい」という言葉に、今まで出会ったことがない。
 人間は、何を持つことができないと、一番辛いのだろうか。お金でも食料でも家族でも信頼でも自由でもない。人間は、“人格”を持つことを許されないと、生きることが出来ないのではないだろうか。「恵まれた奴隷よりも、お腹を空かせた貧民になりたい」と言うリンダからは、“人格を持ちたい”“人間として生きたい”という強い想いを感じた。

 窓からふりそそぐ穏やかな太陽の光や、空に輝く星を見て、みなさんはどう思うだろうか。普通ならば美しさに感動したり、心が解れたり、希望に思いを馳せたりするはずだ。そうでなくても、“自分を嘲笑っている!”と感じたことのある人はいないだろう。リンダは、そうだった。幼い少女は、奴隷制を「道徳の破壊」だと言及している。「道徳観を混乱」させ、「道徳的な行動を不可能」にするものだと。
 最後、そんな彼女が太陽のきらめきと海を渡る風に、純粋に興奮し感動する瞬間がやってくる。それが、彼女にとっての一番の希望を掴んだ瞬間だったのだろう。

 奴隷として闘った少女から、多くの問いが投げかけられる。
 生きるために、必要なものは何か。今回読書日記で書きながら考えてみて、何となく見えてきたところで、またリンダから投げかけられる。
 正義とは何か。奴隷制の法を守る、支配者たちのことを“正義”と言えるのだろうか。生き残るために法を破って逃亡するリンダは“正義”とは呼べないのだろうか。
 リンダの問いの答えを探していくのが、“人間として生きる”ということなのかもしれない。

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