南沢奈央の読書日記
2021/04/02

風光る

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撮影:南沢奈央

「トマト食べられるようになったのね。偉いね」
 つい先日、スライストマトが入ったサンドウィッチを食べようとしたら、母が褒めてくれた。
 わたしはずっとトマトが苦手だった。母のせいにするわけではないが、母がずっとトマト嫌いで食卓に並ばなかったことが影響している、と思っている。実際、姉も弟も、程度は違えどトマトが苦手だからだ。
「まだトマト単体では無理だけど、カプレーゼまでいけるようになったよ」
 いつの間に、とおどろく母。だけどわたしからしたら、母がある日、生トマトを塩だけで美味しそうに食べている姿を見たときは、いつの間に、と衝撃だった。
 母はいつの間にか、大のトマト好きになっていた。普通、好きになるにも過程があるはずだ。「嫌い→でも食べてみた→あ、好きではないけど食べられる→え、美味しいかも?→進んで食べるようになる→大好き!」みたいな。わたしが見た母の変化は「嫌い→大好き!」だったから、人ってそんな変化があり得るのかとおどろきだったっけ。
 でもふと、今回母の見せたおどろきは種類がちがうと思った。そういえば、前もこういうことがあった。納豆が嫌いで全く食べようとしていなかった弟が、結婚してからは、むしろ好んで納豆を食べているという話を聞いて、母が衝撃を受けていた。うれしいような、でも少しだけさみしいの方が大きいような、そんなおどろきだった。
 子どもの成長はうれしいけれど、さみしい。

 そんな親心を、藤野恵美さんの『ハルさん』を読んで、ようやく理解できた気がする。というか完全に、“ハルさん”の父親目線でこの物語に入り込んでしまった。
 早くに愛する妻・瑠璃子さんを亡くしてしまい、人形作家として、男手ひとつで一人娘である“ふうちゃん”こと風里を育ててきた、春日部晴彦“ハルさん”。本書は、そんな娘のふうちゃんの結婚式の日のお話だ。ハルさんは、結婚式当日、これまで起きた“事件”を次々と思い出していく。現在を軸に、回想するように5つの過去の話が挟まれる。それぞれふうちゃんが、幼稚園、小学4年生、中学2年生、高校3年生、大学1年のときにあった、ちょっと謎が潜んだ思い出の数々。
 成長していくふうちゃん、父親として奮闘し続けるハルさん、そして二人を見守り、ときにハルさんに励ましの声をくれる瑠璃子さん。ハルさんの仕事、ふうちゃんの学校生活、父と娘の距離感や関係、それらの変化を追いかけて、初めはうれしい気持ちでほっこりと読みながらも、徐々に、ふうちゃんが成長すればするほど、娘の巣立ちのときが近くなることに気づき、さみしくなってくる。
 ハルさんの回想を辿って、愛情に満ちた日々があったからふうちゃんは結婚を決断したのだと知る。父と娘、力を合わせて進んできた人生。だからこそ、ふたり並んでヴァージンロードを歩き、ついにふうちゃんの手が離れたときのハルさんの気持ちが、痛いほど分かった。わたしも目頭が熱くなってしまった。
 ふうちゃんの背中がまぶしく見える。きっとそれは、ハルさんのあたたかな光があるからだ。

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