南沢奈央の読書日記
2022/02/04

幸福なトレーニー

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撮影:南沢奈央

 約2年ほど前から、わたしはオンライントレーニングを続けている。コロナ禍に見つけた家での過ごし方の一つである。
 普段パーソナルジムをやられている先生と、zoomでリアルタイムに繋いで、オンライン上で指導してもらいながらトレーニングするというもの。知り合いに声を掛けてもらって、運動不足の解消ができたら……くらいの気持ちで始めた。
 月曜から土曜の毎朝と、毎日ではないが平日の夜に、さまざまなクラスが設けられている。「お腹引き締め」「脂肪燃焼」「下半身」「リカバリーストレッチ」「パワーストレッチ」「背骨コンディショニング」「美尻」など、バラエティに富んでいて、好きなクラスに参加できる。
 いざやってみたら、これがまぁきつい。家の中でヨガマット1枚分の上で完結するトレーニングなのに、汗はすごいかくし、30分ないし1時間のトレーニングの後は軽く放心状態になっている。翌日は必ずといっていいほど筋肉痛も出る。
 それでも続けられているのは、1対1ではない、というのが一つポイントかもしれない。
 先生1人に対して、生徒は平均で10人ほど参加している。人数が多くてあまり見られていないから適当にやれる、というわけではない。それはむしろ大間違いで、先生の目はいくつあるのかと疑うほどに、ちょっとでも動きがぬるくなってくると名指しで指摘される。まるで1対1でやっているかのような気分だ。それでも時々聞こえてくる、一緒にトレーニングしている人たちの「ううっ……」という唸り声や、「きついっ」とつい漏れ出る声がとても励みになる。きついのは自分だけじゃない。誰かが一緒に頑張っているから、わたしも頑張れるのだ。
 ちなみに最近の楽しみは、わたしの影響で始めた母の画面に映り込む実家のネコたちを拝むことである。母ともオンライン上で顔を合わせられるから、これまたうれしいコミュニケーションにもなっている。
 おかげさまで、体を動かすこと、そして自分の体と向き合うことが習慣化し、体形の変化も実感できるようになってきた。

 トレーニングの楽しさを知ってきたところだが、同じトレーニングでもまったく別の世界がある、と石田夏穂さんの『我が友、スミス』を読んで思い知ったところである。
 本作は、第45回すばる文学賞佳作、そして第166回芥川賞の候補にもなった小説である。
「新たなる筋肉文学の誕生を祝いたい」という帯にある岸本佐知子さんの言葉が表すように、今までになかった題材を扱い、話題となっている。
 簡単にあらすじを紹介すると、普通のアラサーOLがボディ・ビル大会を目指す、という分かりやすく興味の湧く内容だ。
 スポーツジムでトレーニングしている場面から始まり、いきなりマニアックな筋トレ、もとい、種目の数々が出てくる。スクワットだけでも、バーベル・スクワット、ブルガリアン・スクワット、ルーマニアン・スクワット、ナロー・スクワット……。マニアックと言っていいのか分からない。筋トレをしている人、もとい、トレーニーにとっては当たり前の知識なのだろうか。この“トレーニー”という言葉も初めて知った。
 かつてわたしもスポーツジムに通っていた時期はあったが、そういえばマシンの名称もぜんぜん知らずに使っていた。タイトルにある「スミス」が、まさかマシンの名前だったとは……。スミスというのは、スミス・マシンというバーベルの左右にレールがついていて、このレールに沿ってバーを上下に動かすことができるという、比較的安全に使えるマシン。ネットで検索して画像を見て、あぁこれね!とは思ったものの、使ったことはない。
 そんな知識のないわたしでもこの小説がおもしろく読めたのは、終始熱量たっぷりに説明、描写をしてくれるからだ。何より、ボディ・ビル大会に向けて主人公・U野が努力を積んでいく姿から目が離せなくなる上に、ボディ・ビルの世界の奥深さにハマっていくのだ。
「女性のボディ・ビルには、女性らしさも必要」
 ボディ・ビルのイメージは完全に「筋肉」だったが、筋肉以外のことも求められる。たとえば、ステートメント・ピアスと呼ばれる大きなピアスをすることが必須だとか、肌の美しさも審査対象になるとか。だから、U野は脱毛や歯のホワイトニングなどをしたり、髪をロングにしたり、とにかく筋肉以外の外見を整えることでも忙しい。
「この競技は世間と同等か、それ以上に、ジェンダーを意識させる場なのだ」
 U野もそういったさまざまなルールにぶつかり、疑問を抱き、それでも「別の生き物になりたい」と一直線に臨み、最後に見つけた自分らしい姿が本当にかっこいい。その時U野に溢れた多幸感というのは、その境地に行った人しか味わえないものだと思うと、わたしには一生得られないものだろう。
 常に汗を感じながらも、爽快感と幸福感を感じられる稀有な一冊であった。

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