南沢奈央の読書日記
2021/04/16

わたしの正欲

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撮影:南沢奈央

 いろんな人がいるからね。
 わたしはわりとこの言葉を使う。人から誰かの愚痴を聞いたとき。いろんな人がいるからね、怒らないで許してあげて。自分の考え方や価値観とは違う人に出会ったとき。いろんな人がいるからね、受け入れないと。
「多様性」という言葉が謳われるような世の中になって、より意識するようになった気がする。わたしもなるべく、あらゆる人のことを理解したいという思いがある。そう思っていた。
〈多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない〉
 朝井リョウさんの『正欲』で、「多様性」というワードが含む違和感を突き詰めていくうちに、はたと気づいてしまった。
 ただ、感情の整理をするのにちょうどよかったのだ。
〈自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ〉
 ある時は、諦めに近い思いを含んでいたのかもしれない。いろんな人がいるから「仕方ない」。想像しても及ばないくらいの世界があるというのに、想像することすら、この一言で放棄してしまっていたのかもしれない。
〈自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ〉
 そもそも「許す」「受け入れる」という考えがある時点で、傲慢だ。きっと、心のどこかで自分が正しいと思っているのだ。だからといって、「自分は正しい」と声を上げることもできない。
 だって、自分が正しいのか、本当はわからないから。

 どうせわからないだろう。
 好きな本や音楽を聞かれたときに、相手によって答えを変えることがある。瞬間的に浮かんだ今本当に好きなものを伝えても、きっと相手には、良さはわからないだろうと思ってしまうと、大多数が好きであろう定番の答えをチョイスする。というよりも、相手に合わせて、共感してもらえそうな答えを探す。
 だって、合わせた方が楽だから。そして、安心したいからだ。
 ではどうして、楽になりたいのか。どうして安心したいのか。
 だって、自分が〈まとも側の岸〉にいるのか、自信がないから。
 
〈正しいか。合っているか。多数派なのか。まともなのか〉
 この不安の中を、わたしも生きている。多くの人がそうであるはずだ。自分はまともである、正解である、と思いたい。だからあえて自分を殺してでも多数派の道を選ぶ。それが生き延びるためのすべだと信じてきた。
 だけど、この一文で足元が一気に崩れ去った。
〈三分の二を二回続けて選ぶ確率は九分の四であるように、“多数派にずっと立ち続ける”ことは立派な少数派である〉
 大きな道を選んで歩いてきていると信じてきたが、実際は、必死の綱渡りだったのだ。本当は気づいていたかもしれない。でも足元を見ることができなかった。見られるわけがない。なぜなら、こわいからだ。
 多数派と思っていた道はとっくに少数派の道になっていて、周りを見渡せばひとりかもしれない。そう考えただけで孤独と不安が襲う。この先、何を選んで進めばよいのか――。
 
 無意識に目を背けていた部分、自分の愚かさに向き合わざるを得ない読書体験。
 その通りです、としか言えない。何の否定も弁明もできないほどに、自分の奥底にあったものを鮮やかに見抜かれてしまった。

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