南沢奈央の読書日記
2017/06/30

蕎麦屋のコーヒー

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撮影:南沢奈央

 会社勤めはしたことがないから、学校通いを思い出す。
 毎日同じ時間の電車に乗って、同じ場所で、同じメンバーが集まる。そしてみんなでその日やるべきことをこなし、「また明日~」とか言いながら別れ、それぞれ家に帰っていく。
 最近はこのような日々の繰り返しである。舞台稽古に入ると、毎回こうなる。
 この仕事をしていると不規則な生活の方が普通だから、今が何だかイレギュラーな感じ。同じような毎日を過ごしていると、特にこれといった目新しいこともなくなる。新しい場所に行くこともないから、新しい出会いもない。
 こんな生活なもんだから、毎日寝る前につけている日記の内容がつまらない。書くのは、稽古のことばかり。「難しい!」「けど少しずつ見えてきたかも」「と思ったけど、まだ台詞の意味が分からない」「まずは台詞を入れなくちゃ……」「お、意外と台詞が入ってきたぞ?」「だめだ、役のイメージが全然出来ていない」。葛藤の毎日。だからこそ、わたしは無性に思った。誰かの楽しい日々を見たい。

 楽しい生活を送っていそうな人の部屋を探すように、本棚を探った。アンテナがビビッと反応したのが、吉本ばななさんの『日々の考え』だった。買ったままで、まだ読めてなかったやつだ!手に取ってみると、一か所だけ、ページの端が折られているページがあった。わたしは、小説以外だと、気になったページの端を三角に折ることがある。ということは……読んだことがあるのだろうか。まずはその折られたページを開いて、目を通してみるけれど、記憶がない。それにどこの部分に引っかかってドッグイヤーしていたのか、まったくピンとこない。でも、タイトルを見ただけで、これはエッセイだぞ、とすぐに分かっていたってことは、やはり読んだことがあるのかも。

 どちらにしろ……この本を読んで、舞台稽古が始まってから活字に食傷気味だったわたしが、回復したのだった。遊びに行く時間も余裕もない中で、良い友達を見つけたような感覚だった。著者を身近に感じて、お喋りをしているような、心躍る感覚があった。
 ホラー映画愛だったり、オカルト的体験談だったり、巨大亀の飼育秘話、ご家族とのやり取りなどは、わたしからすると、非日常のぶっ飛んでいるエピソードだけど、それがハッピーに、自由に語られている。想像を超える世界を見せてくれる、傑作エッセイだ。

 本書のあとがきでも書かれていたように、「当然人生は楽しいことばかりではない」。だけど、はっきりと気づかせてもらった。「常に楽しいことをピックアップするのは可能」だと。
 規則的な生活を崩すカギは、楽しいことを見つけることなのかな。そんな思いを胸に抱いて生活していると、さまざまなことが起こるものだ。稽古場へ向かう途中に、知らないおじさんに「傘貸してって言ってみ」と話し掛けられて、「傘?(持ってますけど)貸してください…」とおずおず返してみると、「傘は貸さん!」だって。笑った。
 またつい数日前、お蕎麦屋さんで食べ終えて、蕎麦湯かお茶でもいただけないかと思っていると、お店のおかあさんが察知したようにわたしの所に来てくれて、「時間あるなら飲むもの出してあげるわね」と厨房に行ってすぐに戻ってきた。おかあさんの手には、年期の入った木のカウンターには似つかわしくない、可愛らしい花柄のコーヒーカップ。ソーサーまで付けて。ごく普通のインスタントコーヒーの味が、なんだか新鮮に感じられて、その夜の日記には、楽しかったこととして、しっかりと書き留めた。

 ***

[編集部より]
南沢奈央さんが出演する舞台「カントリー」は7月12日~17日までDDD青山クロスシアターで上演される。主演は大空ゆうひ。共演に伊達暁。世界各地で公演されてきた舞台の日本初上演。男女三人の三角関係を描き、何通りもの解釈ができる、秘密が散りばめられた物語。南沢さんはある夫婦の関係を脅かすミステリアスな女を演じる。

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