石ころを拾うころ
以前、友達から旅のお土産にと、石をもらったことがある。
綺麗なものを見つけたから、拾ってきてくれたらしい。
……確かに。そういうことは、わたしもたまにある。色や形や模様が珍しくて手に取ってみたら、捨てるのは惜しくて、とりあえずポケットに入れる。だけどそんなことはすぐに忘れてしまって、旅も終わってしばらく経ってからふとポケットから硬いものが出てきて、あぁそうだったと思い出す感じ。
家で見ると、拾ったときに感じた面白みは全く消え失せているし、あの時の“捨てるのは惜しい”なんて感情は一ミリも湧かずに、簡単に捨ててしまうことができたりする。
もちろん、石をくれた友達がわたしと同じとは言わない。むしろ友達は、“あげよう”と思って意識的に持って帰ってきてくれたわけだし、それを意識的にポケットかどこかから出してくれたわけだ。
友達がくれたその石は、白っぽくて半透明。小指の先ほどの、本当に小さな石。
「かわいい」。受け取ったわたしは言った。小さくてかわいい、かもしれない。
……綺麗、なのだろうか。つるつるしているわけでもなく、握ると手が傷つきそうなくらいにワイルドなごつごつ。土も少し付いたまま……。
つまり、わたしは何が言いたいかというと、石をもらって、反応に困ったということだ。
困っている、と現在進行形にするべきだろう。その石はまだうちにある。大変申し訳ないが、大事にとってあるわけではない。1年ぶりくらいに見たらホコリをかぶっていて、半透明がさらに濁った気がする。決して綺麗とは言えない。
だが、捨てられない。
綺麗ではないが、どこにでもあるような石ではないからだ。
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- いい感じの石ころを拾いに
- 価格:858円(税込)
もしかして、これがわたしにとっての「いい感じの石ころ」なのだろうか。
そんな考えに至ったのは、宮田珠己さんの『いい感じの石ころを拾いに』を読んだから。
これは、「日常生活の合間に、ただただ自分にとっていい感じのする石ころを拾いに行く、そういう話」が書かれた本。そして時々、石拾いのプロ(?)や先輩(?)に会いに行って、石談義をする。
面白いのは、著者が拾う対象が、価値がある石や役に立つような石ではないこと。本当に、なんでもない石を拾うのだ。
しかも著者は専門的な知識もないし(知りたいとも思わないらしい)、何の成分で出来ているかとかそういうむずかしい説明もなく、色や肌触り、拾ったときの感覚が伝わってくる。それを読みながら、カラーページの石の写真を見てみると、確かになんだか、“いい感じ”なのだ。これならわたしも拾って家に飾ったりなんかしたい、というようなものばかり。
新潟・糸魚川、伊豆・御前崎、北九州、津軽、北海道……と石拾いの旅をする著者だが、石自体の魅力をはっきり捉えきれていないのも、また面白い。
著者にとっての「いい感じの石ころ」も、そう表現するだけのことはあって、定義するのがむずかしいのだそう。「拾うときの気分によっても違う」と言っている。
雑誌『愛石』の編集長とのやり取りでは、編集長が語る水石の良さに乗り切れていない様子が見て取れて、逆に、石ころ拾いの先達の話にはあまりに食いついていて、そのギャップが可笑しかった。
それもこれも、自分にとってのいい感じの石ころを探す旅路なのだろう。
実際、さまざまな場所で石拾いをし、多くの石ころに触れていくうちに、徐々に自分の好みの傾向が見えてくる。さらに、そのいい感じの石ころを拾うためには、「メノウと堆積岩が多く落ちている海岸」に行けばいい、とまで分かってくる。さらにさらに、石拾いの仲間もどんどん増えていく。著者が石拾いにおいて成長していく過程も見ることができるのは、石拾いマニアとか石の専門家ではないからこそ。
石に対しての感覚が洗練されていく様子は、読者としては興味深いが、著者自身はやはり、そこにはあまり意味を見出していないようだった。
目的はただ一つ。自分にとってのいい感じの石ころを拾うこと。あとがきにも、「それ以上主張したいことは、とくにない」とあったが、本当にそうなのだと思う。
それでも、石に大して何とも思っていなかったわたしが、読み終えたときに、石拾いに行きたくなっている。
まず、目を向けていなかった足元にはどんな石ころがころがっているのだろう。しゃがんで、触って、観察してみたい。あんな風景のように見える模様の石はあるかな。あんな卵のようにすべすべした石は……。その中から、自分にとってのいい感じの石ころをひとつ、拾ってみたい。
何の役にも立たず、何の意味もないかもしれないけれど。