南沢奈央の読書日記
2018/06/29

帰宅リラックス電車

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撮影:南沢奈央

 今日も稽古を終えた。電車の席に座り、一息。カバンから本を取り出す。
 だが、何となく集中できない。目の前に立っているサラリーマンとの間に、得も言われぬ緊張感が漂っている。
 電車に乗り込んだ時、空いていたこの席に一直線に向かったところ、反対側から勢いよく向かってきたサラリーマンと席の目の前で鉢合わせ、一瞬お見合いの状態になってしまったのだった。さあ、どっちが座る……。その一瞬後、彼が吊革を掴んで一歩引いてくれた。わたしは「すみません……」と、扉が閉まる音でかき消されるほどの小さな声で言い、席に腰を下ろした。
 この方もきっと朝から会社で働いて疲れているんだろうなぁ、と感じながらも、今日はわたしも稽古帰りでヘトヘトなので許してください、と心の中で呟きながら、そして座ったからには読書をさせてもらおう、と本に目を落す。
 夜の満員電車に乗り合わせた人々の物語が、オムニバスで描かれている。痴漢されていることを若干楽しんでいる美人、ずっと会社に泊まり込んでいてようやく家に帰れるというエンジニア、別れの手紙を送った恋人に会いに行こうとしているOL、危篤状態の父親の元へ急ぐ床屋の息子……。

 一駅進んで、わたしの左隣で参考書を広げていた学生さんが席を立った。試験が近いのだろうか、参考書からほとんど目を離さずに降りていった。帰ってからも勉強するのかもしれない。それとも家に帰ってから勉強しないで済むように今一生懸命になっているのか。
 頑張ってね、と見送ったらすぐに、先ほどのサラリーマンがすぐに腰を下ろした。良かったですね。わたしがちょっと腰を浮かせて右に寄ると、彼も本を取り出して開いた。そのとき。
 ふぁさぁぁ。ほやほや。
 左腕に温かさを感じる。まるで何かを纏ったかのような感触。あくまで本に顔を向けながら、左腕に神経を集中させる。その正体は……逞しく毛深い右腕だった。
 毛深サラリーマンさんもわたしも、膝に乗せたカバンの上で、両手で本を開いている。その体勢が全く一緒だから、ぴったりと腕の面が接しているのだった。ページをめくるのに気を遣う。めくるたびに腕が微かに動き、腕毛をほやぁと感じる。
 だがわたしには不快感はなかった。毛はさらさらと柔らかく、むしろ徐々に安心感を覚え始めてしまっている。それに加え、隣に座るまで気づかなかったけど、何だか、良い香りがするのだ。
 やがて、密着していることよりも、毛深サラリーマン改め、芳香サラリーマンさんがどんな本を読んでいるのかが気になり始めた。
 左腕の感覚と視界の隅で確かめるに、彼は1ページめくるごとに栞を挟み直していくタイプのようだ。わたしとは正反対。わたしは、出来るだけめくったページを溜めておいて、一気に栞を移動させたいタイプだ。
 さらに思い切って横目でチラリと見ると、ブックカバーをつけないタイプのようだ。ここもわたしと違う。表紙に見えたのは、“遅刻”の文字。
 トーマス・フリードマンの『遅刻してくれてありがとう』ではないか!赤い文字だから下巻!わたしも読みたかったやつ!どうですか、面白いですか?! 左腕から彼の右腕に問いかけてみる。返答をもらう前に、右腕がまたふぁさぁぁと撫でて降りて行った。
 同じ電車に乗り合わせ、隣に座っても、会話も何もない。どこの誰かも分からない。だけど、同じ空間にいて、同じ空気を共有している。すると見えてくるものもある。どんな人なのか?これから帰る人なのか?これからどこかへ行く人なのか?

 ちなみにわたしの右隣は、スマホ熱中サラリーマンだ。わたしが乗り込んだ時からずーっと食い入るようにスマホを見ている。ようやく会社を出たのに、帰り道にもメールで上司からのダメ出しを受けているのではないか。それともストレス発散のためにゲームでもしているのだろうか。どちらにしろ、目が疲れそう。(まことに勝手な想像です)
 息抜きには読書がお勧めですよぉ、とわたしは本を閉じ、降りようとしたときに視界に入った、スマホ画面。そこにはダメ出しメールでもゲーム画面でもなく、写真が表示されていた。(ごめんなさい、凝視したわけではないけど目に入っちゃったのです。)小さい男の子がおもちゃで遊んでいる姿。息子さんだろう。この可愛い子が待つ家に帰っていくのだろう。
 同じ空間に居ながら、それぞれがそれぞれの方法で、自分の時間を過ごす。
 最近のわたしの帰宅電車を楽しむ方法は、同じ電車に乗り合わせた人たちの物語を想像して、思いを馳せてみること。それが出来るようになったのは、阿川大樹さんの『終電の神様』を電車の中で読んだからだ。

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南沢さんが出演する舞台「ウォーター・バイ・ザ・スプーンフル」の東京公演は7月6日(金) ~ 22日(日)紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAにて、大阪公演は8月4日(土)サンケイホールブリーゼにて行われます。
http://www.parco-play.com/web/program/wbts/
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