南沢奈央の読書日記
2020/04/03

心の内にあるもの

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク


撮影:南沢奈央

 以前、レギュラーでやっていたラジオのゲストに脳科学者の中野信子さんがいらっしゃって、脳をしつけていく未来への鍵として、こうおっしゃっていた。
「ネガティブを飼いならすこと」
 不安、妬み、嫉み、怒り、嫌悪、無気力……。こういった感情を、わたしは極力抱かないようにしてきた。自分の心を蝕む、いけないもののように思っていた。
 だけど中野さん曰く、ネガティブはむしろ大事なものであり、まずはその存在を認めてあげることから始めるといいのだという。
 その話を聞いた瞬間、ふっと靄が晴れたような気がした。
 そして、見えたのだ。ネガティブはわたしの中にも存在している。持っていなかったのではなく、蓋をしてきたのだ。

 木内昇さんの『占』を読んでいたら、そんなことを思い出していた。
 本書のテーマは題の通り。「占(うら)」=「事物に現れる現象や兆候によって神意を問い、事の成り行きや吉凶を予知すること、うらない」(デジタル大辞泉より)を巡って、女性たちの心理を見事にあぶり出した短編集だ。
 女性は占いが好き。そんなイメージが強い。
 だがわたしは、占いが好きか、と問われたら、「別に……」と答える程度である。占いに行ったこともない。
 とはいえ、雑誌に「今月の運勢」のページがあったらふたご座をチェックして、良い結果だけを目で追い、悪い結果は見て見ぬふりをする。テレビで「今日の生まれ月別運勢ランキング」的なコーナーが始まると、6月が上位に来るように祈ってしまう。上位に入らず、下位であることに薄々気付き始めると、テレビを消す。10位や11位という中途半端が一番いやだ。もうむしろ最下位になれば、「これがあれば大丈夫!」とラッキーアイテムを教えてくれたり、アドバイスをくれたりする。だからそれらの前向きなメッセージを見るために、またすぐテレビを点けてみたりするのだ。
 占いに、望みの言葉だけを求める。
「時追町の卜い家」の主人公・桐子が、まさにそうだ。時代は大正の末、翻訳家として自立した生活を送っていた桐子は、ひょんなことから家に寄りついた大工の伊助に思いを寄せている。だが、桐子の話を聞こうともせず、生き別れた妹の話ばかり。伊助にとって自分はどんな存在なのか、どのように接していけばいいのか知りたくて、占いに行ってみる。

 ある日、自分の「望みの答え」を得られずに占いが終わった。お金を払ったのに。「このまま終わらせることはできない」と意地になって通い、欲していた言葉が得られると、またそういう言葉を少しでも多く引き出すために、さらに足繁く通うことになる……。
 占う側から描いたのが、「山伏村の千里眼」。主人公・杣子はカフェーのレジで働く、言ってみれば主張の薄い、「いるのにいない人」。ある時、居候している叔母の家で、不本意にも恋愛相談で人気が出てしまう。
 特になんの執着もなく、悩みもない杣子が、他人の相談に乗っているうちに、考えるようになる。「そもそも、幸せとは、なんなのだろう――」。
 そして一つの考えに辿り着く。「真実ではなく女たちの望む答えを放ってやること」なのだと。

 全7篇を通して、執着や依存することから生まれる、不安、妬み、嫉み、怒り、嫌悪、無気力が浮かび上がってくる。
 占いは、心の蓋を開けるきっかけになるのかもしれない。
 心の内からどろどろと出てきた、自分自身のネガティブ。その存在を自分で認めることは、やっぱり勇気が要ることだ。存在を認めた上で、ちゃんと向き合う。どうしてそのネガティブが生まれているのか。その理由が見えたら、いよいよ飼いならすことができるだろう。本書はそれを、やさしく手伝ってくれるような一冊だった。
 今、大きな大きな不安を抱えている人は多いと思う。わたしもそう。
 この不安がきっと、人間の生命を維持していくために必要なものになっていくと信じて、わたしは勇気を持って抱え直す。振り回されてはならない。決して、手放してはいけない。

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク