南沢奈央の読書日記
2018/05/25

本、空を飛んで輪廻転生

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撮影:南沢奈央

 雨の休日、ある本を読んでいたら一歩も外に出ずに一日が終わった。単調な雨音は部屋を包み込むような安心感を与え、自然と集中力が高まった。心地よい読書時間。だがやがて、お腹がグゥと鳴って我に返った。耳で判断するに、いつの間にか雨足は強くなっているようだった。ふと外の世界と遮断されて閉じ込められているように感じられて、窓を開けてみた。すると雨のすき間から、学校帰りであろう子どもの声が聞こえてきたことで安堵して、さらにお腹がグゥグゥと鳴ったのである。
 そんなこんなで今日は、読書と食事しかしていない。だから今パソコン画面上に、文字が生まれている様子を見て、新鮮な感動を覚えている。しかも自分がまさにその言葉を生み出しているという、感慨。これはこの本と一日向き合った後にしか味わえないものであろう。
 小田雅久仁さんの『本にだって雄と雌があります』。
 ああ、いつわたしの本棚に来たのでしょう。おそらく、どなたかにいただいたものだ。本書に登場する本のように、雄本と雌本の間から産み落とされた本ではあるまい。だが本棚を眺めていて背表紙を見た瞬間、「なにこれ!おもしろそう!」と初対面のリアクションをしてしまった。今まですぐ近くにいたのに、気付いてあげられなくてごめんなさいと謝る代わりに、休日を本書に捧げた。

 本が勝手に増える。本みずからが本を生み出し増殖している。そして新たに生まれた本は鳥のようにばさばさと、空を飛ぶ。そんな不可思議な現象を目撃するのが、語り手である土井博。
 超常現象を語るにあたって語られる家族史が、本書の厚みを出している。(内容もそうだし、物理的な厚みもなかなか。)話は博の曾曾祖父まで遡る。おじいちゃんのおじいちゃん。そこから順を追って説明していかねば、本についての謎やキーパーソンである祖父には辿り着かないのだ。その祖父・深井與次郎が、例の空飛ぶ本の持ち主である。“学者”“蔵書家”と言うと、かたい真面目なおじい様を想像するかもしれないが、「ユーモアこそが知識人と大衆とを架橋するものである」「結局笑うことを忘れた者から脱落していくのだ。一期は夢よ、ただ狂え」がモットーの駄洒落と法螺話が得意な、愉快なおじいちゃんだ。
 長い家族史に與次郎の戦争体験や飛行機事故が織り交ぜられ見えてくる、不可思議な本の真実。物語は、宇宙のようにスケールが壮大で、奥深い。謎も残る。ではどんな内容なのか……と聞かれても、宇宙を説明しろと言われているようなもので、途方もなき旅になるのが目に見えている。だからこそ、読んで体感してほしいと、投げやりに聞こえるかもしれないけど、声を大にして言いたい。とにかく、こんなに没頭したのはひさびさなのだ。
 一気読みしてしまった理由のひとつは、独特の語り口だろう。落語のような気持ちのよいテンポ感で、ありとあらゆる言葉によって作り出される表現。特に、比喩表現のクセの強さたるや。普通なら素通りしてしまう部分をこれでもかってほど喩えて、笑わせ、立ち止まらせる。
 他にもある。今まさにこの本を読んでいる者に突き刺さる言葉が随所に出てくるのだ。本好きだったら、なおさら。

《本いうんはな、読めば読むほど知らんことが増えていくんや。どいつもこいつもおのれの脳味噌を肥やそうと思て知識を喰らうんやろうけど、ほんまは書物のほうが人間の脳味噌を喰らうんや》
《知はもはや世界をねじ伏せる道具ではなくなり、学ぶこと、学びうること、それ自体が喜びとなった》
《たった一行の文章を書くのでも、たった一つの言葉を選ぶのでも、それを裏から支えるなんらかの精神がなければならない。いっさいの言葉はなんらかの形で書き記す者の精神に根を張っていなければならない》
《書いた人々の魂の火が筆先から乗り移り、彼ら(書物)は皆、火を宿しているのだ》
 
 こうした言葉に出会うたび、考え耽ってしまう。本には命が宿っている。今まで本が生み出される瞬間を想像したことがあったか。どのように本と向き合ってきただろうか。今どんな本を手に取ったらいいのか。そもそも、なぜこうして本を読むのだろうか。
≪人間はみんな死ぬと一冊の本になって遠くへ飛んで行く≫ことを信じるとするならば、あの世に行くまで、本と喰いつ喰われつの闘いをよろこんで引き受けたい。その本がどこから来たのか想像し、自分の行く先に想いを馳せることができたら、つよく羽ばたける一冊になれるだろうか。

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