南沢奈央の読書日記
2023/10/06

あからんの短歌

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撮影:南沢奈央

「あかいまるだね~」。2歳の姪っ子は、わたしの腕にある虫さされの痕を見てよろこぶ。「くろくぬっちゃったの?」とホクロを見つけてはおもしろがる。右だけ汚れが滲んでしまった白いスニーカーも「こっちはちゃいろのくつで、こっちはしろのくつ!」とはしゃいでくれる。
 姪っ子の世界には、「虫さされの痕」も「ホクロ」も「汚れ」も存在しない。色や形で捉える。それらがどういうものなのか、理解しようという気もない。ただ、見える世界を言葉にしたい、という気持ち。だってそれは楽しいから、というとてもシンプルなことのような気がする。
 そんな人間の原点のような物の見方や表現に触れると、ハッとする。世界に対して失われていた新鮮さが蘇ってくるのだ。そんな姪っ子と接したときのような感覚が、田中有芽子さんの短歌を読んだときにも湧きおこった。
 歌集『私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない』には、あいうえお順に並べられた321首の短歌に加えて、「りからん」という「り」から始まって「ん」で終わる、しりとり形式で並べられた短歌105首が収録されている。穂村弘さんによる解説で深みが増し、また、田中有芽子さんの「あとがき」と「最後に」によって余韻が残る一冊になっている。

〈アイウエア眼鏡のことをアイウエア大きな声で音読しよう〉
 早速一首目で、やられた!と思った。あいうえお順で並べられているというフリも効いている。カタカナだと、「アイウエア」と「アイウエオ」が視覚的に似ているのもよく分かるし、「音読しよう」と言われると、ついやってしまう。大きな声ではきはきと口に出してみると、ほんとに「アイウエオ」のそれになる。
 身近な発見が、可笑しさや楽しさに変わる。それをリズムよく短歌に乗せて届けられると、こちらまでわくわくしてくる。
〈蕪の葉の根元を切ると切り口が緑の薔薇に見えるやってみて〉
 描写だけをして発見を伝えることもできただろうに、「やってみて」と勧める。これはくすぐられた。それだけ誰もが同じように気軽にやってみることができることだし、勧めるくらいのちょっとした感動があったんだろうということが感じられる。つい、蕪を買い物メモに加えてしまった。
 子どものようにまっさらな気持ちで物事に目を向けているからこその、見えてくる世界と出てくる表現の数々。その感覚に触れたわたしもすこし、世界が変わる。蕪の葉の根元を切ると「緑の薔薇」が咲いていて、エレベーターの閉じるボタンを押そうとすると「簡略な蝶」が止まっていて、かつおぶしは湯豆腐の上で「湯気ダンス」を踊っている。
 それに加えて、田中さんはいくつもの豊かな目を持ってらっしゃる。虫やぬいぐるみ目線の短歌がときどき現れるたび、自分が見えている世界ってほんの一部なのだなと思わされる。
〈「この辺の空気は堅い」ガラスにぶつかった黄金虫の認識〉
〈白イノガ ハミ出タダケナラ 戻ルハズ ひそひそ話すぬいぐるみ達〉
〈芯ノ芯マデ濡レタ時緑ノ死来ルぬいぐるみ達の風説〉
 そして見るのは物事だけではない。言葉を視覚的に捉える。
「閃輝暗点」の字面が素敵、という歌がある。輝き閃く、それが暗闇で点滅。たしかに素敵な四文字だ、けどこれは偏頭痛の前兆現象なのだというオチ。
「きょうはぷうるはか?」「今日はプールは可!」。同じ言葉で表記を変えるだけで、子どもと大人の会話になるし、このひらがな表記の訳の分からなさも堪らなく良い。視覚的にも言葉を表現するおもしろさを知る。
〈深夜徘徊未成年補導時所持品星座早見表1点〉
 漢字がずらりと並ぶ緊張感。しかも「深夜」「補導」という言葉。だけど、最後の「星座早見表1点」で脱力。あぁ深夜に星を見に出かけていたのね、と分かった瞬間のホッとして涙が出そうになる感じ。ぱっと見の第一印象と、中身を読んでからの印象ががらりと変わる短歌が他にも多くあった。
 
 この本を開けば、今いる世界を、(さまざまな目で)見てみること/考えてみることの楽しさに触れることができる。そして言葉にしてみること、という人間だけが許されたこの上ない幸せに気づかせてくれるのだ。

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