南沢奈央の読書日記
2018/09/14

通り道の純喫茶

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撮影:南沢奈央

 わたしが東京都内で好きな街は、“谷根千”だ。谷中・根津・千駄木の下町情緒ある空気が好きで、ふらーっと散歩しに行く数少ないエリアである。
 根津と千駄木の間あたりに、お気に入りの喫茶店があった。車も入れない細い路地を歩いて入っていく。周りの民家と馴染みすぎて、控えめな看板を見逃すとお店だと気づかない。外から店内を覗くような窓はなく、最初は入口の引き戸を開けるのにも結構勇気が要った。
 そこはおひとり様専用の喫茶店だった。基本、1人用の席しかない。ごくたまに2人で来たお客さんも入れていたけれど、会話は一切許されなかった。一度、パソコンのキーボードを叩く音を店主の方に注意されてからは、本のページをめくる時にも気を遣うほど。店内にほぼ音がないからだろうか、店主の小さな声が耳に残っている。
 コーヒーはもちろん、牛乳にもこだわっていて、オレやココアも本当に美味しかった。チーズケーキの濃厚さも忘れられない。店主との会話も最低限にしなくてはならないから、毎回、置いてある来店ノートに「おいしかったです」と一言書いて、帰った。
 残念なことに数年前、突然閉店してしまった。それ以来、谷根千に足を運ぶ回数が減っていた。

 今わたしは久しぶりに、谷根千に行きたくなっている。『純喫茶トルンカ』を探しに。
 わたしのお気に入りだった喫茶店から谷中方面に行くと、“純喫茶トルンカ”はあるようだ。八木沢里志さんが描く純喫茶も、昔ながらの雰囲気を残した小さなお店だ。商店街を折れ、両側を民家に囲まれた路地の奥、というなかなか分かりづらい場所にある。
 口数の少ないマスターに、看板娘の雫、アルバイトの大学生・修一が働いている。トルンカは、マスターが淹れるコーヒーが美味しいと評判だ。舌にざらつくような雑味がなくて、後味はさっぱり。近所の人が集う場所になりながらも、初めて入ってきたお客さんもすぐに受け入れてくれるのも良い。「私たち、前世で恋人同士だったんです」と修一に突然言い出すお客さんが現れても、ちゃんと耳を傾けてくれる、人情味のある喫茶店だ。

 3篇の主人公は、みなぽっかり開いた心の穴を埋めようとしてトルンカへ来る。幼少期の辛い時期、一緒に過ごしたあの子が忘れられなくて。むかし自分の欲のために捨ててしまったあの人ともう一度会いたくて。失ってしまった姉の面影を追って。谷中へ来て、トルンカへ入って、抱えた孤独や後悔や悲しさと向き合っていくことになる。
 ある客は、トルンカのお店の雰囲気を「風の通り道」のようだと表現する。人々はここで一旦、立ち止まる。けれど、必ずまた外へ出ていくのだ。風の流れを変えて。
 立ち止まるにも心地よく、出ていくには爽やかで、戻ってもあたたかい。そんなトルンカのような喫茶店と出会えるだろうか。物語の人物たちの人生を辿りながら谷根千を散歩するには、ちょうど良い季節になった。

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