南沢奈央の読書日記
2018/03/16

第2ボタンがふたつある

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撮影:南沢奈央

 先日、出身中学の先生からご連絡をいただき、卒業生へ向けてメッセージをお贈りした。便箋と向き合って、まず、今まさに卒業を迎えた中学生の気持ちを想像した。中学生活を終えた嬉しさと寂しさ、そして新しく始まる高校生活への不安と楽しみ、さまざまな感情がごちゃまぜになって、それが涙になっている人が多いのではないかと思う。
 さて自分はどうだっただろうと思い返してみる。すると蘇ってきた感情が、ソワソワとドキドキ。卒業式当日のわたしは、好きな人の第2ボタンを貰えるかどうかで頭がいっぱいだったのだ。
 結果から言うと、わたしの手元にはふたつの第2ボタンがある。好きな人のものと、わたしが少し苦手に思っていたクラスメイトのもの。好きな人の第2ボタンは、校門で待ち伏せしていたけど、最終的に友だちに頼んで貰ってきてもらった気がする。もう一つは、教室の端で、突然「貰ってください!」と渡された気がする。そう、“気がする”のだ。
 第2ボタンという思い出の塊を掌に乗せて、目を閉じて、校門から入って教室まで辿ってみた。思い出の脳内散歩は、不安定でふわふわしている。脳内で見えた景色を言葉にしてみたけど、どこか記憶が修正されているように思えてきて、確信が持てない。すると言葉にしていいのだろうかと申し訳ない気分になってくる。

 そんなわたしの気持ちを楽にしてくれたのが、中島京子さんの『樽とタタン』。物語と共に、喫茶店に居つく小学生時代のタタンを回想していると、何が本当かは重要ではないように思えてくる。
 タタンは学校帰りにいつも喫茶店に立ち寄る。と言うのも、両親が共働きのために預けられていたのだ。母親の迎えを待つ間、お気に入りの赤い大きな樽から、無口なマスターと個性的な常連客を観察している。常連客のおじいさん小説家が“樽といつも一緒にいるから”という理由で「タタン」というあだ名をつけたくらい、樽とタタンは一心同体だった。
 タタンの記憶の軸は、樽だ。それから30年経った現在から、樽を起点として小学生時代の喫茶店での出来事を辿っていく。だけどそのタタンの記憶の、不確かさったら!曖昧でつかみどころのない記憶を、ひとつひとつカタチにしていって確かめているような描かれ方なのだ。
 生物学者である“バヤイ”が語る孤独について思い出す「バヤイの孤独」では、子どもには難解な話が多いからか、「たしかそういう順序で説明してくれたように思うのだけど、」とか「そう、バヤイが言ったように思うのだが、」とか、一歩一歩慎重に記憶を辿っているタタンが見える。その姿がとても可愛くて、可笑しい。
 「ずっと前からここにいる」では、未来から来たけど使命を忘れてしまって辛い、と言う女性が突然お店に現れる。最後には息子が迎えに来て、少し病気だったんだと大人たちは処理する。だけど今のタタンが辿った記憶によると、本当に未来から来た人だったのだろうという、女性の存在の真実味が増したものになる。
 記憶を辿って、言葉というカタチで再構成していくと、それはまた新たな思い出になっていく。もちろん意図的に記憶を歪めることは良くないけれど、記憶が変化していくのはごく自然なことのように思える。その中に、確かに存在したものが一つでもあれば良いのではないか。

 「ぜひ激励の言葉を」と依頼された卒業生へのメッセージは、少しばかり美化された第2ボタンの思い出話と、中学時代にスカウトされて始めた今の仕事をこれからも頑張っていきたいという意思表明になってしまった。
 記憶は未だ曖昧なまま、封を閉じた。12年前の中学卒業式の日、友達に頼むなんてことをしただろうか、友達が貰ってきてくれたものは本当に“第2”なのか。男子の方から渡してくるなんてことがあるだろうか、何て言って受け取ったのだろうか。そういえば、どちらが好きな人のものだっただろうか。
 本当のことは分からない。だけどひとつ確かなのは、わたしの目の前に、第2ボタンがふたつある、ということだ。

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