南沢奈央の読書日記
2021/01/08

しあわせあわせ

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撮影:南沢奈央

 元日、姉が出産をした。
 南沢家では、新年が明けたことよりも、出産に対する「おめでとう」で溢れていた。新たな命の誕生とはこれほどまでに感動的なのか、と改めて思う。
 おめでとう、おめでとう。病院にいる姉に向けて、何度も口にした。とてもとても幸せな、新年の幕開けだ。
 数日前に、無事に退院して赤ちゃんを連れて実家に戻ってきた。
 赤ちゃんの第一印象は、小さい! 病院から送ってくれた写真で見た印象よりも、ずいぶん小さかった。大げさかもしれないが、イメージより半分くらいの小ささだ。顔はわたしの握りこぶしくらい。赤ちゃんの握りこぶしは、わたしのくるぶしくらい。
 1か月前くらいから実家に準備されていたベビーベッドにも、ようやく命が宿り、あたたかさを持ったような気がした。
 すやすやと寝ている。ときどき、顔の向きを動かしたり、腕をぐーっと上に伸ばしたり、「みゃあ」と猫のようなかわいい声を出したり。大人たちはご飯を食べている途中でも、何度もそわそわと立ち上がってベビーベッドを覗きに行ってしまう。
 そわそわしてベビーベッドを覗き込むのは、2匹の猫たちも同様だった。一生懸命、背伸びをして覗き込む。高いところへ上がって上から見てみる。最終的には同じ高さくらいのソファの上で、ベビーベッドの方を向いて珍しく2匹が体を寄せ合っていた。
 幸せだ。赤ちゃんの存在はもちろんのこと、全部ひっくるめて、この状況が愛おしい、と思った。
 2021年は、良い一年になるだろうという自信が湧いてきている。

 そして早速、今年最初に手に取った本からも、幸せをもらう。
 益田ミリさんの『しあわせしりとり』。幸せをもらいにいった感は否めないけれど、それでもいい。もらいにいっても、感じ取れなかったら意味がないわけだから。
 そうだ、感じ取る。幸せを「噛みしめる」でも「あじわう」でも何だかしっくりこない。そこにある幸せに気づけるかどうか。肌で、感覚で、感じ取れるかどうか。それ次第で日常はいかようにも豊かになるのだ。生きる上で大事だけどつい見失いがちなこのことが、今回も益田さんのエッセイに触れたことで、身体に染み渡ってゆく。
 また、本書に収録されているエッセイが「オトナになった女子たちへ」という題で新聞連載されていたように、子どもから大人になったことで忘れていた大切な何かを思い出させてくれる。
 たとえば、タイトルにもある「しあわせしりとり」。益田さんが友だち何人かと歩きながらやったという遊び。幸せなものしか言ってはいけないルールだ。大人になってほとんどやらなくなってしまったしりとりをやる時点で、もうなんだかほっこり。さらに幸せな言葉をつなげていく、というなんと平和な時間なのだろう。そして後から、〈「めりーごーらんど」の前の「め」で終わった言葉はなんだったっけかな?〉と考える。思い出したときについ笑みがこぼれてしまう、何ともないけど幸せな言葉。そこにあるのは、幸せの連鎖だ。
 疲れが溜まってきたときには、やりたいことをやる。喫茶店でアップルパイと、ハイボールを注文してみたり。ナポリタンが無性に食べたくなって洋食屋さんに入ったり。映画が観たくなればレイトショーでも行く。大人になったって、本能の赴くまま、欲望の赴くまま、行動してもいい時だってある。
 大人になったからって、諦めていたもの、我慢してきたもの。それらがむくっと目覚めてくる。どこかへ捨ててきたはずなのに、やはり自分の中に仕舞われていたようだ。
 まだまっさらな、生まれたばかりの赤ちゃんを目の前にして、悟る。自分の心の奥底に積み重ねられてきた本音や欲望と向き合えるのも、大人になったからこそできることだと。そうすればきっと、幸せだ、と感じられる瞬間がたくさんやってくるはずだ。

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