南沢奈央の読書日記
2023/07/28

朝日に奏でるメロディー

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撮影:南沢奈央

 わたしは今週月曜から木曜まで、お休みの別所哲也さんに代わって、J-WAVE「TOKYO MORNING RADIO」のナビゲーターを務めさせていただいた。アーティストのTENDREさんと一緒に、朝6時から3時間の生放送だ。
 早起きはいいものだ、と思うけれど、まだ外が暗い中で起きるのはなかなか大変だった。寝坊してはいけないという緊張感もあって、ちゃんと寝られたような心地もしない。4時前にアラームが鳴り、頭がぼうっとしたまま布団から出て、顔を洗い着替える。ほぼ自動運転状態だが、大抵スムーズに準備が進んで時間が余り、コーヒーを淹れたりなんかして。
 すると徐々に意識はすっきりしてきて、気分も上がってくる。しかも六本木ヒルズ33階のJ-WAVEに到着した5時頃には、ちょうど絶景を拝むことができる。六本木のビルの合間に昇る朝日。その色が何とも言い表せない、発光した赤。空は夜から朝へのグラデーションの色。東京タワーはまだ眠っている。見下ろす街はまだ静けさの中にあって、この一瞬しか見ることのできない景色を独り占めしたような気になった。
 番組では、たくさんの音楽に触れた。ポップス、ジャズ、クラシック、ガムラン……ジャンルもさることながら、東南アジア、スペイン、キューバ、ドミニカ共和国、トリニダード・トバゴといった、普段あまり接することのないさまざまな国の音楽。毎度音楽の豊かさに驚き、心が震えた。
 こんなにも多様な音楽が、世界には溢れている。4日間の濃密な3時間の生放送の中で、そのことを体感させてもらった。
 どうしてこんなにも人は、いろんな形で音楽を生み出してきたのだろう。音楽って、メロディーを奏でることって、人類にとって、どんな意味があるのだろう。

 不思議なことに、わたしはちょうど、その答えにたどり着くような小説を読んでいたのだ。いや、この小説を読んでいたから、ラジオを通してそんな問いが湧いてきたのかもしれない。いずれにせよ、同時期にラジオとこの一冊に触れたこと、そしてふたつが繋がったこと、それは奇跡のようである、と思った。
 その本とは、吉田篤弘さんの『鯨オーケストラ』である。なんとも惹かれるタイトル。内容も知らずにそのくらいの気持ちで開いた本だったのだけど、どうやら大きく口を開けた鯨に飛び込んだようだ。世界に飲み込まれたような感覚になった。でもそこは、とても光に満ちていて、あたたかかった。
 偶然にも主人公は、地元のラジオ局で深夜の番組を担当しているという人物。〈サイレント・ラジオ〉という番組名の由来は、“沈黙や静けさを乱さないように”とかつての飼い犬・ベニーの魂が語り掛けてきたから。ナレーションや吹替など、声の仕事を生業としているが、ハンバーガー好きから〈バーガー・ログ〉というブログをやっていて、そちらもちょっとした人気が出ている。33歳、曽我哲生。自分と同い年の主人公に一気に興味が湧く。
「人生は旅だ」。客船でジャズを演奏する楽団の一員だった父親が記した航海日誌の言葉から、哲生は考える。
〈では、いったい自分はいま、人生の旅のどのあたりを通過しているのか。何を目印にして、どちらへ向かって進めばいいのか〉
 この問いは、読者のわたしたちにも投げられている課題のようでもある。一旦立ち止まって、考えさせられる。すると世界はぐんと広がって、時間から解き放たれる。美術館で哲生が鯨に出会ったときのような感覚。この小説を読んでいると、こういった瞬間がたびたび訪れる。
 17歳のときに自分をモデルに絵を描いてもらったことがあって、そのことについてラジオで話したら、番組宛に、曽我さんによく似ている肖像画を見た、というメールが届く。それがきっかけで美術館に行くのである。
 その美術館で哲生の旅は大きく動き出す。巨大な鯨の絵と出会い、そして17歳の肖像画と再会し、連鎖するように、キッチンあおい、土曜日のハンバーガー、流星新聞、鯨オーケストラ……と繋がっていく――。

 さて、例の“メロディーや音楽の意味”というのを考える上で印象的な場面の一つも、その美術館にある。展示を見ながら、その空間に哲生はメロディーの気配を感じるのだ。絵に描かれた魚が話しかけてくるようで、そこからメロディーの特性を考え始める。これは父親の影響でクラリネットを吹くようになった哲生ならではの視点である。そこでの考察の一節だ。
〈メロディーは、たとえそこに歌詞が付いていなかったとしても、誰かに何かを伝えようとしている意志が感じられる。メロディーを奏でることは、言葉を奏でることに等しく、そこにもれなく何かが立ち上がってくる〉
 また、その後、哲生が吹替を担当した映画で、「天国とは、どのようなところなのか?」といった内容のものがあったことをふと思い出す。「天国というのはきわめて個人的なところ」という考え方が面白い。「認識していたとしても、一度も使ったことがなく、触れたこともないとなると、あなたの天国にそれは存在しない」という。そこから、音楽を天国へ連れて行くにはどうしたらいいのか、と哲生はもどかしい気持ちになり、そして気づくのである。
〈人は手に触れることの出来ないものを、消えてなくならないよう、さまざまな形で留めるよう知恵を絞ってきた。
 音楽は、きっとそのひとつだ。見えないものや、ともすれば消えてなくなってしまうもの、もどかしさや苦しさや喜びや悲しさといった思いを、忘れないようにと、旋律にうつした〉
〈楽器に託して、不確かなものを確かなものにしてみせた〉

 繋がっていく。
 飲み込まれた鯨の中から顔を出す。ゆったりとした穏やかな海で、ずっと先の景色まで見渡せるようになっていた。この瞬間だけの、特別な朝日も見えるようである。

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