南沢奈央の読書日記
2023/11/03

ここだけのハナシ

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南沢奈央さん(C)新潮社

 その日は美容室でのロケだった。わたしはまだ18か19かそこらで、まだまだ人見知り全開。年上の人ばかりの仕事の現場でどう振る舞ったらいいのか、何を話したらいいのか分からず、下ばかり向いていた。わたしは美容師役で、お客さん役の男性共演者の後ろに立つ。ちょっとした待ち時間はその人が質問してくれたことに、特に目も合わせずにぼそぼそと答えていた。たしか趣味を聞かれて、ふと、志ん生が好きだという話をしたら、その人は驚いた顔で振り返った。それが初めてちゃんと目が合った瞬間だったと思う。その人もたまたま落語が好きで、それから会話がひとしきり盛り上がった。鏡越しにその人のキラキラした表情が見えて、同時に自分の喜んでいる顔も見えて、急に恥ずかしくなって下を向いた。
 そのときに彼が薦めてくれたのが、立川談春さんの『赤めだか』だった。談春さんが談志師匠に弟子入りしてからの修業時代を描いたエッセイだ。笑って泣いた。胸に刺さる言葉もたくさんあった。落語の世界の奥深さに触れ、何より談春さんの落語を聴きたくなった。感激したわたしは、後日また現場で一緒になったときに、『赤めだか』の感想を伝えるとともに、北村薫さんの『空飛ぶ馬』を渡した。噺家と女子大生のタッグが日常の謎を解いていくミステリーで、「円紫さんと私シリーズ」としてその後も数冊続く。当時まさに大学生だったわたしがハマって読んでいた作品だ。
 そうしてまたしばらくして、彼は『空飛ぶ馬』の感想とともに、寄席に行くときに持っていくといいよと、十一代目金原亭馬生師匠監修の『面白いほどよくわかる落語の名作100』をくれた。開くと、本のページの間に連絡先が書かれた紙が挟まれていた。それからわたしたちは、電話やメールでも、落語のことだけではなくお互いのことを話すようになった。

「落語を聴きに行きませんか」
 初めてのデートで誘ってくれたのが、談春師匠の独演会だった。うれしくてうれしくて、でもこのうれしさが、初めてのデートに対してなのか、初めて生で談春さんの落語を観られることに対してなのか、きっと両方なのだろうけれど、もう感情がぐちゃぐちゃだった。『紺屋高尾』の久さんが取りつかれたように「来年3月15日、来年3月15日……」と高尾との約束の日を呟くように、その時のわたしは「来月立川談春独演会、来月立川談春独演会……」と様子がおかしかったと思う。
 その独演会のことは、今でも忘れない。高揚とちょっとした緊張も相まって、そのときの景色は10年以上経ってもよく思い出せる。
 談春さんの落語は衝撃的だった。言語化するのは難しいけれど、高座からエネルギーがびしびし飛んできて、圧倒された、というのが一番近い感覚かもしれない。その日の演目は、『船徳』と『子別れ』の2席。言ってみれば、両極端な二つの噺。動きで見せて笑いも多い落語のあとに、しっかり聴かせる人情噺。爆笑していたのに、最後には涙が溢れていた。談春さんの虜になり、落語というものにさらに心掴まれた日だった。
 右から聞こえてくる彼の笑い声も、同じタイミングで笑ったときに見合わせた顔も覚えている、とか言ってみたいけど、それは記憶の遥か彼方へ行ってしまった。それからわたしがどれだけ落語を聴いてきたか。そのたびに、同じ客席にいる知らない人たちと一緒に笑う。そのたびに、心がときめく。共有できた笑い声、わたしの幸せな空間は更新されていっている。ただ、落語デートの帰り道に、「どういうところで笑うか知れるからいいよね」と言ってくれたのは胸に響いたから、わたしが友だちと落語を観に行くときに使わせてもらっている。そして、談春さんに出会わせてくれた彼への感謝も忘れない。
 今では「芸能界の友だちは?」と聞かれれば、談春さんのお名前を出させてもらうくらいに親交を深めさせてもらっている。ご自宅にお邪魔させてもらって、おかみさんにもあれこれ相談に乗ってもらったり、昨年池袋演芸場で落語を披露することになった際には、なんと談春さんに稽古をつけていただいた。

 落語と出会い、落語を読み、落語を聴き、観て、落語を演る。そして、落語を書く。
まさかこの読書日記で、自分が書いた本を紹介できる日がくるとは夢にも思わなかった。
 わたしの人生を動かしてきた落語。その落語への愛をたっぷり詰め込んだ、初エッセイ集『今日も寄席に行きたくなって』に書かなかった、ここだけのハナシ。

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