宇宙人から見た、地球星人
Common sense is the collection of prejudices acquired by age 18.(常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。)
アルベルト・アインシュタインが残した言葉だ。
18歳という年齢は人それぞれだとしても、“なるほど、その通りかもしれない”と思ってしまうのは、わたしの中にも偏見が積み上げられているからだろう。
自分の持つ常識は、場所が変わると非常識になることがある。
日本で当たり前だと思っていたことが通用しないと気が付きやすい。
子どもの頃、インド人がカレーを手で食べている姿をテレビで見た時には、ショックを受けた。韓国では食べる時にお茶碗などを持ち上げてはいけないと知り、テーブルに置いてあるお茶碗に口を近づけて食べた。慣れるまでは落ち着かなかった。
郷に入っては郷に従え。一回、日本での常識を捨てようと思う。正しいと信じてきたルールーを、捨てよう。だが、小さい頃から親や学校に教わってきたことを捨てるのは、少しばかりの抵抗を感じることもある。これも“偏見のコレクション”が堆積している証拠なのかもしれない。
常識は様々な枠組みで存在する。家庭、学校、会社、地域、国……。大人になればなるほど、自分が所属する場所が増え、それぞれに常識が存在する。場所を移れば、差異に気づかされる。
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- 地球星人
- 価格:1,760円(税込)
今まで、“国”、つまり“日本人である”ことが自分にとって一番大きな枠組みだと思っていた。
だから、“星”という枠組みで「常識とは?」という問いに立ち向かっている村田沙耶香さんの『地球星人』には、脳天を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。
小さい時から自分は“地球人”ではないと思っている奈月が主人公だ。地球を「工場」と呼び、自分は二種類の意味で「道具」だと言う。
〈一つは、お勉強を頑張って、働く道具になること。
一つは、女の子を頑張って、この街のための生殖器になること〉
小学生のときから、母親に「みそっかす」と言われ、自分は人間として出来損ないで、道具として落ちこぼれだと思っている。それでも<早く工場の一部にならなくては。世界に栽培されるままに脳を発達させて身体を成長させなくては>と、自分を押し殺し、周りに従っていく。
しかし大人になり、自分は“ポハピピンポボピア星人”であるという意識が強くなる。「工場」の「洗脳」から逃れて、生きていく道を探す。自分と同じように「工場の一部」になれずにいる“宇宙人”仲間を見つけ、やがて、地球の常識を放棄する生き方を選択する――。
〈私はいつまで生き延びればいいのだろう。いつか、生き延びなくても生きていられるようになるのだろうか〉
小学生時代の奈月がふと覚えた不安であり、物語の最後まで問い続けることになるこのフレーズは、とても印象的だ。
読んだとき、「生き延びる」という言葉が、妙に腑に落ちた。わたしたち(地球人)は、枠の常識で作られた歯車の中で必死になっている。存在する場所で、何かの役目を果たそう、認められよう、と。存在する資格が欲しいのだ。それを放棄することは、そう簡単ではない。
衝撃のラストで分かるのは、この地球の常識の中に留まるにしろ、奈月たちのように放棄するにしろ、わたしたちは“生き延び続けなければいけない”運命にあるということだ。
本書を閉じて、自分が偏見のコレクションの塊であることを思い知らされながらも、今まで抱いたことのない、ささやかで壮大な願いが湧いてきた。
生き延び続けなければならない運命なのだとしたら、地球の常識に反している“宇宙人”がいたとしても、どうにか一緒に存在できる地球であればいいなぁなんて。
少しばかり、“地球星人”としての自覚が芽生えたようである。