南沢奈央の読書日記
2021/06/04

いざ着物の国へ

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撮影:南沢奈央

 わたしが着物への興味を再燃させていることを知ったかのように、インスタグラムに猫の写真とともに、着物の写真も流れてくるようになった。
 群ようこさんのエッセイを読んで着物を始めようと思い、いよいよ身近に意識するようになっていたところで、『着物の国のはてな』という本を教えてもらった。これは、“南沢さんと似た疑問を持った、ノンフィクション作家の片野ゆかさんが、着物を取り巻くモヤモヤを解いてゆく内容”とのこと。パラパラと見てみるとなるほど、初心者度合いとしては同じ地点からのスタートのようで安心する。
 だが安心したのもつかの間、「はじめに」を読んだだけで気が遠くなってきた。「思考停止の世界」「モヤモヤした想いは増す一方」「着物の国は、複雑怪奇なルールに満ちたパラレルワールド」という言葉が並ぶ。かなりディープな世界に足を踏み入れようとしているのかも……やっぱり軽い気持ちで着物を始めようなんて思っちゃいけないのかも……。弱気になって引き返したくなる気持ちと闘いながらページをめくった。

 着物の世界に入っていくと、さまざまな壁にぶつかる。著者は早速、母親の遺品である着物を、インターネットの着付け動画を見ながら着てみるが、やけに老けて見えてしまう。浴衣だと似合うのに、着物になった途端、“親戚のおばちゃん”。その理由をヤフー知恵袋で聞くあたり、とても親近感が湧くがそれは置いておいて、知恵袋での親切で丁寧な回答から、衿元の着付けと着物の色柄選びに問題があると気づく。
 そういえば以前、時代劇に出演していたときに、毎日同じ着物を着付けてもらっているのに、老けて見えたり、逆に若々しく見えたり、日によって印象が違うと感じたことがあった。写真に撮って見比べてみたら、本当にちょっとした衿合わせの角度の差が原因だったことを思い出した。着付け方だけでも印象を変えられるのだ。“粋”に着たいか、“はんなり”着たいかも、着付け方に反映されるというからおどろきだ。
 着物の色柄選び、といえば、わたしはこれまで一度だけ、呉服店に行ったことがある(緊張しすぎてあまり記憶がないけれど、あれはおそらく呉服店だったはず……)。今から10年前、高座で落語をやることになり、着物と帯、そして羽織を選びに行ったのだ。お店の人から、どんなものが着たいかと問われても、どんなものを着ればいいのでしょうかと問い返すことしかできず、着物を試しに羽織らせてもらっても、似合っているかどうか分からないし、帯と羽織を合わせてもこの組み合わせで正しいのかどうか分からなくて、終始変な汗をかいていた。
 きっと着物の世界ではすべてにおいて正解があるはずだ、とつい正解を求めてしまう初心者(わたし)。同様に正解を追いかけていた著者だったが、着物の世界に入っていけばいくほど見えてくるのは、“正解はない”ということ。こうしなければならない、と何となく抱いていたお堅いイメージはただの思い込みで、着物はもっと自由に楽しんでいいのだということを知っていく。

 著者が初めて自分で選んだ着物は、アイボリーの地に黒の縦縞、両肩から袖にかけて巨大な朱色のアネモネが描かれているもの。いわゆる“ザ・和柄”ではない、サマードレスのイメージに近い、モダンな柄である。素材も家で洗濯できるポリエステル製だから、気軽に使える。
 著者はその着物で、愛犬の散歩にも行くし、飲み会にも参加するし、ライブにも行く。着物でこのフットワークの軽さは尊敬するし、とても勇気をもらえる。確かに普段から着て出かけないといつまでたっても慣れないんだよなぁ。わたしは、着物が着られるようになったら落語を観に行きたいなぁ~くらいにしか考えていなかったけど、仕事の現場とか友達と会う時とかに、気軽に着て出かけるくらいの境地を目指したいものだ。
 この本は実際に着物を着始めてみてからのお悩みや疑問を、一つ一つ解明していってくれる。着物に対するお堅いイメージのわけや、着付け教室の選び方、他人の着付けを注意してくる着物警察の対処法、コーディネートのコツ、「半衿用両面テープ」や「満点ガードル裾よけ」といった便利グッズなど、これから着物を始めようという人にとっては、大変にありがたい情報の数々である。
 インスタグラムで流れてくる着物の写真を見る目も変わってくる。よくよく見ていくと、今までの思い込みではあり得ないような、自由な着方も多い。洋服で合わせるようなアイテム、例えばキャップやロングジャケットを使ったり、帯のアクセントにTシャツを入れたり、着物の下に襟付きポロシャツを着たり、帯留めにファミコンのコントローラーを付けたり……。
 とにかく、楽しそう。読み始めの弱気はどこへやら、読み終えたわたしはむしろ強気になっている。いざ着物の国へ。着物を身につけ日常を過ごす日も意外と近いかもしれない。

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