南沢奈央の読書日記
2023/03/24

ヨムの冒険

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撮影:南沢奈央

 不思議な体験をした。
 わたしは最近、三島由紀夫の『夏子の冒険』を読んでいた。先日ラジオにゲストで来てくれたふかわりょうさんが「旅」というテーマでお薦めしてくださった一冊だ。夏子という20歳の箱入り娘の主人公が、「修道院へ入る」と意志固く宣言して函館へ向かうことになるのだが、その道中で出会った一人の男性に惹かれ、彼と一緒に一頭の熊を追うことになる……という冒険譚。
 今まで思っていた三島由紀夫作品のイメージとはかけ離れたポップさに驚かされた。そして情熱的な上にユーモアがあって、非常に爽やかに読める。すっかり夢中になって、一気に3分の2ほどを読んでしまった。
 それからすぐに読み切りたいと思っていたが、今週に入ってとにかく忙しくなってしまった。朝6時からの3時間生放送のラジオ番組のナビゲーターの仕事があって、3時半起床の日々。その中で、5月に上演の舞台の稽古が始まり、初めて関西弁での芝居に挑戦。前日に送られてくるラジオ原稿をチェックして、舞台の台本を読み込んで台詞を覚える。そんなこともあって、『夏子の冒険』は中断したままだった――。
 そして数日前、ラジオ生放送からの稽古も終えて(翌日にまた控えてはいたが)、息抜きがてらに読もうと本を開いたら、まるで文章が入ってこない。視線だけが紙の上を滑っていく。文字はたしかに認識しているが、内容がまったく理解できないのだ。

 本が読めなくなってしまった。人生で初めてそう思った。
 だが代わりに、脳内で音声が流れていることに気づいた。どうやら頭の中で声に出して読み上げているのだ。それなら、朗読のようにゆっくりでも内容が入ってきそうなものだが、ここでは感情は皆無。ただ文字を音声化しているだけという初期のAI状態。さらに大阪訛りに変換されていて、手も付けられないほどのカオスになっていた。

 読書が好きだから、台本を読むことも好きだ。ずっと、根拠なくそう思い込んでいた。なにかの取材でそう話したこともある。だが、どうやらそうではなかったらしい。
 好き嫌いの話ではない。では何が“そうではなかった”かというと、本を読むことと台本を読むことは、決してイコールでは語れないということ。ラジオの原稿もまた同様に。
 同じ“読む”でも、わたしは全く別のことをしていた。自分の中で案外、目から鱗が落ちる発見だった。いままではスムーズに切り替えられていたが、今回のようにハードにさまざまな“読む”をしていたら、脳が疲労で正しく切り替えられず、その境界線すらもなくなり、ごちゃまぜ状態になっていたのだと思う。(脳の研究者だったら説得力があるのだが)
 この数日でわたしが濃密に触れた、本、台本、ラジオ原稿。内容を理解して想像をする、という点は共通かもしれないが、大きく異なるのは、本は読者である自分が文章を読解できればいいが、台本とラジオ原稿は表現して伝えることが最終目的であること。そして台本は役柄の感情を乗せて全身で体現することを、ラジオ原稿は耳だけで誰かに情報を伝えることを思い描きながら読む――。
 はたしてこの感覚、伝わるだろうか。的確な言語化はできていないのだけど、初めてのこの不思議な体験から見えてきたものを一生懸命に吐き出してみた。すると気づいたら、ラジオ生放送は全日程終わり、芝居の台詞も入り、『夏子の冒険』も読了していた。
 数日間の内に、さまざまな“読む”を濃密に渡り歩いたら、新たな世界が拓けていた。

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