南沢奈央の読書日記
2018/08/03

蛙たちよ、井を飛び越えろ

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68撮影:南沢奈央

 井の中の蛙、という言葉にわたしは少し悲しい印象を持っていた。お城に閉じ込められたお姫様的な、悲劇のヒロインのような響きがある。狭い世界から出られずに、その外にある広大な世界を見ることができない蛙。
 だけど実は、外に出られなかったのではなく、出なかったのではないか。留まっていれば、大海で荒波にもまれることも、方向が分からなくなって迷うことも、敵と出会うこともない。井の外から見ると可哀そうだなと思うけれど、井の中は案外、居心地が良かったのかもしれない。瀬尾まいこさんの『戸村飯店青春100連発』を読んで、はたと気づいた。
 
 主人公は、大阪の中華料理店の息子、ふたり。兄・ヘイスケ、弟・コウスケ。生まれた場所も育った場所も同じなのに、好対照をなしている。ヘイスケは「ぴったりはまっていると感じる場所にいた経験など生まれてこの方ない」と言うほど、家でも学校でも違和感を覚え続け、高校卒業後、逃げるようにして東京に行く。別に夢があったわけではなく、とにかく家を出られればそれでよかった。そして友人に連れられて入ったカフェでアルバイトを始める。

 一方コウスケはと言うと、家でも学校でも、お店の手伝いをしても、みんなに愛される。ノリがよくて、周りを明るくするような存在だ。兄がふらふらと居なくなってしまった今、自分がお店を継ぐという覚悟さえもしている高校三年生。最後の学生生活を全力で楽しもうと積極的に行事に参加している。
 タイプが違うからこそ、だろうか。お互いがお互いにコンプレックスを抱いている。兄は老若男女に好かれる弟に、弟は自由気ままにしたいことをしている兄に。それは大阪と東京で離れたことによって、くっきりと見えてくる。

 コンプレックスを抱くと見えてくるのは、相手のことだけではない。自分自身のことも見えてくる。10代終わり、ちょうど自分の将来を考えるタイミングだ。高校卒業したら仕事をするのか、大学へ行ってまだ勉強を続けるのか。
わたしは高校一年生の時から女優の仕事をしていたが、彼らと同じく高校卒業のタイミングで、自分の将来について考えた。女優を続けていくのか、勉学に励むのか。わたしは結果、両方を選択した。コンプレックスを埋めるためだ。どちらも中途半端な段階でどちらかを諦めてしまえば、コンプレックスを一生抱き続けてしまうと思った。二兎追うものは一兎をも得ず状態になりかねないけれど、二兎追っていたほうがわたしの性質上、力を発揮できる、二兎が悪い影響を与え合うわけない、と根拠のない確信があった。そして何より、出来るかどうかなんて、やってみないと分からないという気持ちが大きかった。
 やりたいことを見つけるのは、難しい。だが、今自分にどんな不安があるのか、何に違和感を覚えているのか、どうして生きにくいのか。それが分かったらきっと、自ずと進む方向が見え、エネルギーが湧いてくるのではないかと思う。
ヘイスケとコウスケが、まさにそうだ。ヘイスケは、居心地が悪くて一度は逃げ出した井の中へ、再び飛び込む決断をする。コウスケは、骨を埋めるつもりでいた井から、思いがけず外へ放り出されて、大海をひとり泳ぎ始める。どういう未来が待ち受けているのか。それぞれにとって、何が幸せなのか。それは蛙たちにしか分からない。

 明日、わたしは初めての劇場で、しかも約2週間ぶりに舞台に立つ。もしかしたら、東京公演初日よりも緊張しているかもしれない。東京で21回本番をこなし、良くも悪くも安定してきていた。居心地の良い場所で終えてしまいたいところだったが、別の海へ進まねばならない。声は出るか、台詞や動きは覚えているか、違う地のお客さんの反応はどうか……
とにかく東京を出て、ヘイスケとコウスケのホームグラウンド、大阪へ飛び込んでみるしかない。

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