南沢奈央の読書日記
2024/04/05

春とわたしと修羅

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撮影:南沢奈央

 先日、舞台『メディア/イアソン』の東京公演全22回を無事に終えた。稽古から含めると、2か月以上、劇場のある三軒茶屋に通っていたことになる。
 その間、降雪があったのがもはや懐かしい。ここぞとばかりに、下駄箱からスノーブーツを引っ張り出したっけ。ボアのついた帽子と手袋も、そういや今シーズンでその日しか出番がなかったような気がする。公演が始まった3月半ばには、お花見に行きたいね~なんて共演者やスタッフさんと話していたけど、全然咲く気配がなくて、毎日なんだか、勝手に裏切られたような気分になってがっかりしていた。もはや気にしないようにしようと心に決めたとき、東京で開花宣言がされた。そして千秋楽を迎え、よし外へと思ったら夏日を記録する暑さ……。冬から夏へスキップしてしまったのか。
 春はどこへやら――。その思いからだろう、ここ数日わたしは、あらゆる場面で春を味わおうとしていた。それも無意識に。
 たとえば、その言葉の通り“味わう”でいうと、やけに春限定スイーツに手が伸びたり。「いちごチーズケーキ」だとか「さくらプリン」だとか、薄ピンク色のかわいらしいものを手に取っていた。「いちごソーダ」という、わたしが好きなレモンサワーとは対極にありそうなものにも反応してしまった。普段、自分で買ってまで甘いものを食べるタイプではないのに、だ。

 そしてもう一つが、本。舞台出演中は小説モードになれずに、わりとエッセイなどの本を選ぶことが多い。今回も然り。書店に入って春らしい小説が置いてあっても、食指が動くことはなかった。だからといって、“今の自分の気分はどんなだろう”と向き合い、本を選択するというエネルギーも残っておらず。
 でも、何か読みたい。そんなときに目に入ったのが、角川文庫から出ている、手ぬぐいの「かまわぬ」とコラボしたカバーの名作シリーズ。数冊あるなかで無意識で手にしたのが、中村稔さんが編んだ『新編 宮沢賢治詩集』だった。
 今本を目の前にしてみると、そのカバーの手ぬぐい柄が団子縞だから無意識に春を感じ取っていたのかもしれないが、開いてみて驚いたのは、宮沢賢治の生前に刊行された唯一の詩集のタイトルが、『春と修羅』であったこと。童話は愛読しているが詩に触れたことがなかったわたしは、その事実を知り、引き寄せた、と思った。
 さらにさらに、本書の巻末にある年譜で『春と修羅』が刊行された年を見て――年譜の類が好きなので、作品よりも先に目を通すことが多いのはさておき――、運命を感じずにはいられなかった。実質自費出版という形で出されたが、なんと1924年4月。ちょうど、100年前……! そんなこともつゆ知らず、珍しく詩集を手に取ったら、タイミングといい、内容といい、もう今読むのはこの本以外はなかっただろうとすら思えた。
 本とのめぐり逢いというのは、こういう運命的な偶然、いや、はたまた必然なのかがあるから、おもしろいのだ。これだから読書をやめられない。
 
 赤い糸で結ばれていたと勘違いするくらいの、そんな入口で嗜むものだから、もう感動もひとしお。100年ものあいだ多くの人々の心を動かしてきた、宮沢賢治の瑞々しい感性と言葉が紡ぐ詩の数々を味わって、まさに実感するのだ。
 
〈きみたちときょうあうことができたので
わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
血みどろになって遁げなくてもいいのです〉

 やさしい空気をまといながらも生命力に溢れた“きみたち”に、わたしもどれだけ元気をもらったか。
 東京ではそろそろ桜が満開を迎える。兵庫の劇場の楽屋で、この本を傍らに置いて思うのだ。明日、残り2公演をもって大千秋楽を迎える。魂を注いで表現してきた。なにか、花咲く予感がある。そのとき、いったいどんな景色が見られるのだろうか。
 この心のときめきが、春だ。

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