南沢奈央の読書日記
2018/05/11

クルマ家族

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撮影:南沢奈央

 わたしは車を思いやって、泣いたことがある。小学生の頃の話だが、自家用車を買い替えることになり、その車を売りに出す日のこと。「寂しい」と駄々をこねながら、マンションの駐車場で隣に並んで記念撮影をして、泣いて別れを惜しんだ。車高が低めのスタイリッシュな、憧れの先輩的な青い車だった。その後、ファミリータイプの包容力のある親戚のおばさんみたいなグレーの車がやってきたが、しばらく忘れることはできなかった。
 わたしの父は車好きだ。一台を長く乗るタイプではなく、短いスパンで買い替えて様々な種類の車に乗りたいタイプだ。唯一の趣味と言っていいくらいのものだから、家族もあまり口出しをしない。最近は別れを惜しむ暇もなく、いつの間にか駐車場に見ない顔が並んでいたりする。
 物心ついてからだけでも、うちにやってきた車を10台以上思い出せる。ワイルドな冒険家のような車は、子どもだったわたしには乗るのに一苦労だったけど、ドライブ中の頼もしさとワクワク感は堪らなかった。わたしが免許を取ったときは、可愛らしいラベンダーカラーの友達になれそうな車で運転デビューした。手汗でハンドルを濡らしたこともあったから、穏やかな表情をしながら彼女もきっと、内心ひやひやしていたことだろう。わたしが別れに涙を流した青い先輩に関しては、特別長い期間一緒だったわけでもないし、彼とどこに行ったかも思い出せないから、ただただその外見に恋をしちゃっていたのだと思う。わたしも若かった。

 思い出の車たちはたくさんいるけれど、今一番会ってみたい車がいる。それは、伊坂幸太郎さんの『ガソリン生活』の主人公、緑のデミオだ。わたしの脳内では、“デミ男”というイントネーションで発音されているから、もはや完全に擬人化されてしまっている。物語の中では“緑(みど)デミ”の愛称で親しまれている、気立てのよい彼は、望月家の自家用車である。望月家の長男、その名の通りお人よしの良夫と、10歳にして誰よりも冷静沈着で聡明な次男・亨を乗せていたところ、話題のスター女優・荒木翠が乗り込んできたことをきっかけに、事件に巻き込まれてしまう。ありとあらゆる謎が玉突き事故のように連鎖し、死体を運ぶのを手伝わされる羽目にまでなる。最後には……。望月家と共にデミオの人生は、いや車生?は思いがけない道へと向かっていく。
 本書は、全て車目線で語られる。この物語の車には“人格”があり、車同士が会話を繰り広げる。意志を持って勝手に走り出すなんてことはできないけれど、人の会話を聞いて理解し、状況を目で見ることもできる。
 彼らは噂話が大好きだ。一回話してしまうものなら、誰もが知っている話、車界で言う「工場でエンジンを搭載中の新車も知っている話」になってしまうくらい、広まるスピードも早い。何故なら移動しながらすれ違う車はもちろん、駐車している間も、行く先々で様々な車と出会って話せるからだ。だからこそ、真相を知っているのは車たちだったりする。
 デミオをはじめ、友車であるうんちく好きの白のカローラ、お喋り好きのヴィッツ、ある事件の現場を目撃した生真面目なマーチなどなど……個性豊かな車たちが登場する。車の推理に感心して、車に感情移入して、クスリと笑わされ、励まされる。たとえばこんな具合に。
 「暗い道を不安のまま行くよりも、自分のライトを点けて、自分の道を行くべきだ」
 車だからこその説得力。これは直接言われてみたいものだ。

 今南沢家にいる光沢のある黒い新車は、2か月ほど前にやってきたばかりだ。ここ数年うちにいた車たちよりも大きめの体の彼はまだ、来日したばかりの留学生という感じの馴染めなさ。
そういえば最近、父が、自動運転で駐車をさせてみたら、何度も何度も切り返した挙句まっすぐには停められなかったという話をしていて、わたしはただ笑い飛ばしてしまった。運転を任せられて嬉しかっただろうに、車内でこんな話をしてしまって、さらに彼を居心地悪くしてしまっただろうか。
 今週末、車で遠出する予定だ。実は彼に家族5人全員で乗るのは、初めてだ。「街を走行すれば、葉を茂らせた街路樹が僕たちを囲む、良い季節」とデミオも心躍らせていたこの時期に、楽しくドライブして、新しい思い出を作れたらいいなぁ。

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