南沢奈央の読書日記
2018/10/19

恋して手紙

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撮影:南沢奈央

 むかしから、手紙が好きだ。
 特に、手書きの手紙。手書きほど、言葉以外の情報がたくさん詰まったものはない。
 最近いただいたファンの方からの手紙に、こんなものがあった。
 白地にグレーの横線が入っているだけのシンプルな便せんで5枚ほど。柄も何も入っていないので、書いた文字が余計際立つ。書くのにとても緊張しそうだ。読み始めると、ボールペンの筆圧や線の真っすぐさから、やはり一字一字とても時間を掛けて書かれているのが伝わってくる。
 さらに、なんか立体的に見えるなぁと思ったら、その丁寧な字の後ろに、影のようなものがある。よぉく見ると、文字が消された跡だった。どうやら、鉛筆で下書きして、その上からボールペンで書きなぞり、最後に鉛筆の線を消したようなのだ。
 うれしくて、涙が出そうになってしまった。いくらでもパソコンやスマホで書いて消して、を出来る時代に、こうして考えながら手で書いて、またもう一度確かめるようにしながらなぞって書いていくなんて、わたしは中学の硬筆の授業以来やってない。そんな労力を使ってくれただけでもう、気持ちが伝わってきた。
 ボタンを押せば1秒もかからずにメッセージが送れる気軽さや便利さを知ったからこそ、手紙を送るのに、どれだけ思いがないと相手に届けられないかということに気が付いた。便せんや使うペン選びから始まり、何を書くか考え、手で字を書き連ねていく。そして切手を貼って、ポストに投函する。その後も、住所が間違ってないかなとか、いつ届くのだろうか、返事はあるのかな、とか考えて、落ち着かない。メールのように履歴が残っていないから、そういえば自分は変なこと書いてやしないかと不安は高まるばかり。

 女の子ふたりの往復書簡だけで描かれる『ののはな通信』を読んで、まさに、そんな心の動きが手に取るように分かった。
 ミッション系のお嬢様学校の同級生である、“のの”と“はな”。貧しくて狭い家で家族3人暮らしのののと、帰国子女で両親は海外にいて妹とお手伝いさんとの生活をしているはな。育った環境も今の生活もまったく違うふたりだが、不思議と気が合い、「家族よりも大切なひと」と言うくらいに、特別な絆で結ばれている。
 高校2年生で同じクラスの時には、教室で会うのにハガキや便せんをわざわざ送り合ったり、時には授業中にメモ書きの手紙を回したり。毎日のように、その日の出来事や今の気持ちを夢中になって伝え合う。
 3年生でクラスが別々になり、直接渡すことも出来ないから手紙を送ることになる。返事がないと、相手のクラスに様子を見に行ったり、何度も手紙を送ったり。接する時間が減ったことによって、少し客観的に、他の世界も見えるようになってくる。すると、ふたりの関係性にも変化が生まれてくる。別の大学へと進み、手紙のやり取りで近況報告を続けるが、やがて疎遠になっていってしまう。
 そして40代になってメールでのやり取りが再開した時には、ふたりの住む環境は大きくちがっていた。一方は結婚して海外住まい、一方は一人で東京住まい。それでも文字でやり取りしていると、熱心に手紙のやり取りをしていた10代の頃の感覚に戻っていく。
「文章って、変なものですね。過去やあの世とつながる呪文みたい」
 文章を書いているうちに、蘇ってくる記憶や感情がある。この読書日記を書いていても、その実感はある。手紙という特定の相手ありきの文章となると、なおさらだろう。
 過去を辿りながら、今を伝えていくふたりの往復書簡を読んで、最後わたしは壮大な愛のメッセージを受け取った。「愛っていろんな形や色をしているもの」だということを、ふたりは長年にわたって、あらゆる方法とあらゆる言葉を尽くして、表現していったのだなと思った。それが文章だったからこそ、確固たる気持ちの受け渡しが行われたのだと思った。
 
 わたしは小学生の頃、好きな子にラブレターを書いたことがある。
 好きだったから書こうと思ったのは間違いないし、自分の手で書いたのだが、実際に目の前の便せんに「好きです」という文字が現れたとき、“ああ、わたしってあの子のこと好きなんだ!”と思った。自分の気持ちを発見したのだった。
 ラブレターを渡し、最初はもう堪らなく恥ずかしくてその子の顔なんて見れたものじゃなかったけど、しばらくして反応が気になって、近づいてみたり離れてみたり。それでも何も変化は起きなくて、不安はやがて苛立ちに変わり、最後には諦めに変わった。
 もう、わたしの身体から出てきて、手元から飛び立った「好きです」を追いかけるつもりはない。
 と言いつつ、行方が気になってしまうのは、親心、というか、恋心か。

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